「堕落論(坂口安吾)」の名言をまとめていきます。
堕落論
今後の寺院生活に対する私考
禁欲生活が道徳的に勝れている理由もなく、又特に早く悟れる理由もありません。
FARCEに就て
単なる写実というものは、理論ではなしに、理屈抜きの不文律として本来非芸術的なものと考えられ、誰からも採用されなかったのである。
言葉には言葉の、音には音の、色には又色の、もっと純粋な領域がある筈である。
写実よりは実物の方が本物だからである。単なる写実は実物の前では意味を成さない。
単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい。
高い精神から生み出され、選び出され、一つの角度を通して、代用としての言葉以上に高揚せられて表現された場合に、之を純粋な言葉と言うべきものであろう。
実物を摑まなければ承知出来ないと言うのか。摑むことが出来ないから空想が空想として、これほども現実的であるというのだ。
技術は理屈では習得しがたく、又律しがたいものである。
文学のふるさと
ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。
日本文化私観
インスピレーションは、多く模倣の精神から出発して、発見によって結実する。
まったく、思いだしてみると、孤独ということがただ一筋に、なつかしかったようである。
問題は、伝統や貫禄ではなく、実質だ。
俗なる人は俗に、小なる人は小に、俗なるまま小なるままの各々の悲願を、まっとうに生きる姿がなつかしい。
人間は、ただ、人間をのみ恋す。
人間のない芸術など、有る筈がない。郷愁のない木立の下で休息しようとは思わないのだ。
人は孤独で、誰に気がねのいらない生活の中でも、決して自由ではないのである。
人は必ず死ぬ。死あるがために、喜怒哀楽もあるのだろうが、いつまでたっても死なないと極ったら、退屈千万な話である。
生きていることに、特別の意義がないからである。
文学を信用することが出来なくなったら、人間を信用することが出来ないという考えでもある。
僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。
美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生まれてこない。
それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。
堕落論
けれども人の心情には多分にこの傾向が残っており、美しいものを美しいままで終らせたいということは一般的な心情の一つのようだ。
我々は自発的にはずいぶん馬鹿げたものを拝み、ただそれを意識しないというだけのことだ。
あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。
それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。
終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。
人間は永遠に自由では有り得ない。
人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。
人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
続堕落論
農村は淳朴だという奇妙な言葉が無反省に使用せられてきたものだが、元来農村はその成立始めから淳朴などという性格ではなかった。
日本の精神そのものが耐乏の精神であり、変化を欲せず、進歩を欲せず、憧憬讃美が過去へむけられ、たまさかに現れいでる進歩的精神はこの耐乏的反動精神の一撃を受けて常に過去へ引き戻されてしまうのである。
堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。
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