「老子(蜂屋邦夫)」より名言をまとめていきます。
実際には長文のため管理人にて部分抜粋、難しい漢字も部分的にカナに変えています。
老子
第一章
道の道とす可きは、常の道に非ず。
名の名とす可きは、常の名に非ず。
明確に道と示せるような道は、道とは言えない。
明確に名と示せる名は、名とは言えない。
正直な所、明確な意味は分からない。
ただ分からないぼんやりしたものとして捉えている。
第四章
道は沖にして之を用うるに或いは盈たず。
淵として万物の宗に似たり。
道は空の容器であり、使っても一杯になることは無い。
淵のように深く、万物の大本に似ている。
第五章
多言は数しば窮す、中を守るに如かず。
言葉が多いと行き詰まってしまう。虚心を守るのが好ましい。
失言を防ぐという意味もあるが、相手の言葉を聞く姿勢とも捉えている。
第八章
上善は水の若し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る、故に道に幾し。
最上は水のようなもの。水はあらゆるものに恵みを与え、誰もが嫌がる低い所に流れている。
故に水は道に近い存在である。
老荘の思想では、よく水を例えに使っている。
常に無理のない自然な存在でありたいものです。
第九章
富貴にして驕れば、自ら其の咎を遺す。
功遂げて身退くは、天の道なり。
贅沢をし驕ってしまえば、自ら災難を招く。
結果を残したら身を引くこと。それが天の道となる。
金持ちになれば自分が気をつけても、周りがそれを許さない。
身を引かずに不幸な最後を迎えた人の、何と多いことか。
第十一章
故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。
形あるものが有益なのは、隙間が有効な働きをしているからだ。
遊びは遊びのためではなく、有効に活用するための遊びである。
人材についても、遊びの要素を持っている人を排除してはいけない。
第二十章
学を絶たば憂い無し。
唯と阿と、相い去ること幾何ぞ。
学問を止めれば憂いがなくなる。「ハイ」と「コラ」と、どれほど違うだろうか。
学問が不要とは思わない。しかし少しの違いを指摘するだけなら、実生活では意味がない。
もっと本質的なものを見て、穏やかに生きたいものです。
第二十二章
夫れ唯だ争わず、故に天下能く之と争う莫し。
そもそも誰とも争わないので、世の中の人は彼と争うことが出来ない。
争いはお互いの対抗心から生まれる。
一方が上手く受け流すことが出来れば、争い自体が起こらない。
ただそんな人を狙うかのように、面倒くさい人がいるのも事実だが。
第二十九章
天下を取めんと将欲して之を為さば、吾れ其の得ざるを見る巳。
是を以て聖人は、甚を去り、奢を去り、泰を去る。
天下を治めようとしていろいろなことをしても、私の見る所では治めることは出来ない。
そのため聖人は極端なことを止め、贅沢を止め、驕ったことは行わない。
しかし実際に上に立つ人は、目立つことをし、贅沢をし、傲慢になるのが世の常である。
第三十章
物は壮ならば則ち老ゆ、之を不道と謂う。
不道は早く巳む。
物事は盛んになれば衰えに向かう。これでは道にかなっているとはいえない。
道にかなっていなければ、早くに滅びてしまう。
伸びるのが悪いとは思わないが、自然とは言えない伸びには弊害が出ることが多い。
企業なら人材不足で零落することは多いし、一発屋芸人なら語る必要も無いだろう。
第三十三章
足るを知る者は富み、強めて行なう者は志を有す。
満足を知る者は得ることが出来、力を尽くす者は志を遂げられる。
有名な「足るを知る」の語源になります。
第三十四章
是を以て聖人の能く大を成すや、其の終に自ら大と為さざるを以て、故に能く其の大を成す。
聖人が大を成せるのは、自分から大としないためであり、だからこそ大の存在となる。
大物ぶっても人はよく見てるもの。メッキは簡単にはがれてしまう。
第三十六章
柔弱は剛強に勝つ。
柔弱なるものは剛強なるものに勝つ。
有名な「柔よく剛を制す」は兵法書「三略」に由来しています。
しかしその三略に影響を与えたのが、老子と言われています。
第四十章
天下の物は有より生じ、有は無より生ず。
世の中の物は形あるものから生まれ、形あるものは形なきものから生まれる。
正直、よく分かりません。言葉を感じて下さい。
第四十一章
大方は隅無く、大器は晩成し、大音は声希かに、大象は形無し。
大いなる方形には角が無く、大いなる器が出来るのは時間が掛かり、大いなる声は聞き取ることが出来ず、大いなる姿には形が無い。
有名な「大器晩成」の語源になります。
第四十三章
天下の至柔は、天下の至堅をちていし、無有は無間に入る。
世の中のもっとも柔らかいものは、もっとも堅いものを突き動かす。
形の無いものは、隙間に入ることが出来る。
これも水をイメージすると分かりやすい。
濁流は全てを動かし、また何も無くてもあらゆる隙間に浸透する。
第四十四章
足るを知らば辱しめられず、止まるを知らば殆うからず、以て長久なる可し。
満足することを知れば辱めを受けず、止まることを知っていれば危険を避けられる。
そうすれば長らえることが出来る。
「足るを知る」については第三十三章の「足るを知る者は富み」の方が有名。
ただ個人的にはこちらの方がしっくり来ています。
第四十六章
故に足るを知るの足るは、常に足る。
満足することを知り満足できれば、常に満足することが出来る。
欲望には際限が無いため、どこで満足するかが問題になる。
満足を自慢し競争してしまえば、そこに満足など永遠に生まれない。
第五十六章
知る者は言わず、言う者は知らず。
本当の知者は言わないものであり、言ってばかりの人は本当の知者では無い。
自信があれば「言わない」という選択が出来る。
しかし自信がなければ「言わない」という選択が出来ない。
第六十一章
夫れ両者は各おの其の欲する所を得んとせば、大なる者、宜しく下るを為すべし。
両者の望みが一致するなら、大きい方がへりくだるのが好ましい。
小さい方は弱みを見せまいとして、どうしても頭を下げることが出来ない。
そのため大きい方が頭を下げれば、自然に小さい方も頭を下げることが出来る。
ただ弱者を利用して強者に命令する輩がいるため、むやみに頭を下げればいい訳では無い。
第六十三章
夫れ軽がるしく諾せば必ず信寡く、易しとすること多からば必ず難きこと多し。
是を以て聖人すら、なお之を難しとす。故に終に難きこと無し。
軽々しく受ければ信用は無くなるし、簡単と思ってばかりでは難しくなることが多くなる。
そのため聖人は何事も難しいとして対処するため、結果として難しくはならない。
初めは余裕と思って手を抜き、最後に問題が発生することの何と多いことでしょうか。
第六十四章
民の事に従うや、常に幾ど成るに於いて之を敗る。
終わりを慎むこと始めの如からば、則ち事を敗ること無し。
人は何かを行なう時、いつも最後に失敗する。
最後も最初と同じ気持ちで行えば、失敗することは無い。
終わりに限らず「慣れ」の危険性を指摘してると捉えている。
本当に体が覚えていればいいのだが、覚えていると錯覚してしまう時機が誰にでもある。
第七十二章
民、威を畏れざれば、則ち大威至らん。
其の居る所を狎むること無かれ、其の生くる所を厭すること無かれ。
夫れ唯だ厭せず、是を以て厭わず。
人が統治者の威光を恐れなくなると、大変な事態になってしまう。
人の住む所を狭めてはいけない。人の生きる場所を圧迫してはいけない。
それさえしなければ、人は統治者を受け入れるものだ。
人は与えられることより、失うことを嫌がるもの。
正しいことをしていても、この政治感覚が失われると人は受け入れない。
第八十一章
天の道は利して害せず。聖人の道は為して争わず。
天の道は利を与えても害は与えない。
聖人の道も、何かを為すことはあてっても争うことは無い。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。