「白痴(坂口安吾)」の名言・台詞まとめ

「白痴(坂口安吾)」の名言・台詞をまとめていきます。

白痴

その家には人間と豚と犬と鶏と家鴨が住んでいたが、まったく、住む建物も各々の食物も殆ど変わっていやしない。
(本作の書き出し)

 

場末の小工場とアパートにとりかこまれた商店街の生態がこんなものだとは想像もしていなかった。

 

だが、気違いと常人とどこが違っているというのだ。

 

新聞記者だの文化映画の演出家などは賤業中の賤業であった。

彼等の心得ているのは時代の流行ということだけで、動く時間に乗遅れまいとすることだけが生活であり、自我の追求、個性や独創というものはこの世界には存在しない。

 

如何なる時代にもこの連中には内容がなく空虚な自我があるだけだ。流行次第で右から左へどうにでもなり、通俗小説の表現などからお手本を学んで時代の表現だと思いこんでいる。

 

各自の凡庸さを擁護し、芸術の個性と天才による争覇を罪悪視し組合違反と心得て、相互扶助の精神による才能の貧困の救済組織を完備していた。

 

伊沢の情熱は死んでいた。朝目がさめる。今日も会社へ行くのかと思うと睡くなり、うとうとすると警戒警報がなりひびき、起き上りゲートルをまき煙草を一本ぬきだして火をつける。

ああ会社を休むとこの煙草がなくなるのだな、と考えるのであった。

 

伊沢の心には奇妙な勇気が湧いてきた。

その実体は生活上の感情喪失に対する好奇心と刺戟との魅力に惹かれただけのものであったが、どうにでもなるがいい、ともかくこの現実を一つの試錬と見ることが俺の生き方に必要なだけだ。

 

俺にもこの白痴のような心、幼い、そして素直な心が何より必要だったのだ。

 

いったい言葉が何物であろうか、何ほどの値打ちがあるのだろうか。

 

彼は芸術を夢みていた。その芸術の前ではただ一粒の塵埃でしかないような二百円の給料がどうしても骨身にからみつき、生存の根底をゆさぶるような大きな苦悶になるのであろうか。

 

やりきれない卑小な生活だった。彼自身にはこの現実の卑小さを裁く力すらもない。

 

生命の不安と遊ぶことだけが毎日の生きがいだった。警報が解除になるとガッカリして、絶望的な感情の喪失が又はじまるのであった。

 

怖れているのはただ世間の見栄だけだ。

 

戦争という奴が、不思議に健全な健忘性なのであった。

まったく戦争の驚くべき破壊力や空間の変転性という奴はたった一日が何百年の変化を起し、一週間前の出来事が数年前の出来事に思われ、一年前の出来事などは、記憶の最もどん底の下積の底へ隔てられていた。

知らない変化の不安のために、彼は毎日明るいうちに家に帰ることができなかった。

 

ああ人間には理智がある。如何なる時にも尚いくらかの抑制や抵抗は影をとどめているものだ。その影ほどの理智も抑制も抵抗もないということが、これほどあさましいものだとは!

 

人は絶対の孤独というが他の存在を自覚してのみ絶対の孤独も有り得るので、かほどまで盲目的な、無自覚な、絶対の孤独が有り得ようか。

 

俺は知らない。多分、何かある瞬間が、それを自然に解決しているにすぎないだろう。

 

俺の運をためすのだ。運。まさに、もう残されたのは、一つの運、それを選ぶ決断があるだけだった。

 

「死ぬ時は、こうして、二人一緒だよ。怖れるな。そして、俺から離れるな」

「火も爆弾も忘れて、おい俺達二人の一生の道はな、いつもこの道なのだよ。この道をただまっすぐ見つめて、俺の肩にすがりついてくるがいい。分かったね」

 

再び生きて見ることを得た暗闇に、伊沢はむしろ得体の知れない大きな疲れと、涯しれぬ虚無とのためにただ放心がひろがる様を見るのみだった。

 

全ての人々が家を失い、そして皆な歩いている。眠りのことを考えてすらいないであろう。今眠ることができるのは、死んだ人間とこの女だけだ。

 

人が物を捨てるには、たとえば紙屑を捨てるにも、捨てるだけの張合いと潔癖ぐらいはあるだろう。この女を捨てる張合いも潔癖も失われているだけだ。

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

白痴

 

→堕落論

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