「楽毅(宮城谷昌光)」の名言・台詞まとめ

「楽毅(宮城谷昌光)」より名言・台詞をまとめていきます。

楽毅

1巻

なるほど、人も兵法も、じつにあいまいなものだ。

 

(孫子は)必勝の法をさずけてくれているのだが、楽毅はむしろ、その法にこだわると負けるのではないか、とおもった。兵法とは戦いの原則にすぎない。が、実戦はその原則の下にあるわけではなく、上において展開される。

つまり、かってあった戦いはこれからの戦いと同一のものはなく、兵を率いる者は、戦場において勝利を創造しなければならない。

 

独りで生きることはさびしい。自分のさびしさを視、自分のさびしさを聴いたにすぎぬ。だがな、丹冬、そのさびしさのむこうに、人の真影がある、ということもわかったよ。

 

人が争う場合、欲望を先行させ、怨みをはじめに与えた者が、かならず敗れております。戦いに必勝の法があるとすれば、まず相手にたたかせる。しかるのちに起つ。過去の大勝の例は、すべてそれです。

趙がいま中山に奇襲をかけているのなら、最後には趙が大敗しましょう。

 

薛公の兵が、わずか数千であると趙王は嗤うでしょう。ところがすぐに青ざめるはずです。薛公がうごけば、天下の軍がうごく。薛公という人は、そういう人です。
(薛公とは戦国の四君で有名な孟嘗君・田文のこと)

 

名誉にも不名誉にも逃げない、性情のままの自分でありたい。

 

いまの君主は、人を求めず、利を求め、地を求めている。武力で奪いとったものを、武力で守ろうとしている。

だが、一城の守将の心をつかめば、やすやすとその城は手にはいり、一国の君主の心をとれば、おのずとその国はころがりこんでくる。人心を得るほうが利は大きいのである。

 

ここまでの思考がいかにもやわらかみに欠ける。すすむべき道に大木があれば伐り倒し、川があれば塞き止めるようなものである。大木は避け、川は渡ればよい。

 

いのちにかかわるときは、おのれのままに動いたほうがよい。

 

成功する者は、平穏なときに、危機を予想してそなえはじめるものである。

 

一言でいえば、大国の驕りですな。驕る者は人が小さくみえるようになる。同時に、足もとがみえなくなったことに気づかない。

 

軽蔑のなかには発見はないという認識が欠如していたことである。

 

国家も人も、滅ぶときは内から滅ぶ。

 

2巻

自分が勝って相手をゆるすということはあっても、自分が負けてゆるされるということはない。それが現実なのである。

 

おのれの謀計が非凡であればあるほど、それに酔って、敵がその謀計を察知して裏をかこうとしていることを忘れてしまう。

 

国難は人の虚飾を剥ぐ。

 

世の人は、攻略のあざやかさを賛嘆するが、真の勝利は、戦って取った地を保持するところにある。

 

勇気とは、人より半歩すすみでることです。人生でも戦場でも、その差が大きいのです。

 

君主とは孤独を生きる人をいう。孤独に身を置かなければ、群臣と国民とが納得する聴政をおこなえるはずがない。君主が人でありすぎることは不幸なことである。

 

この城を守りぬいて、どうなるのか。と城兵が未来に希望をうしなったとき、城は落ちるのである。

 

何かを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。わしは聖人でも非凡人でもない。人並みの困難を選ぶだけだ。

 

つねに自分の心身を鍛えていない者は、環境の激変にぶつかると、かえって思考が停止するか、暴走するものである。

 

こころざしが高い者は、それだけ困難が多く苦悩が深いということだ。

 

郊昔よ、城こそ幻にすぎぬ。霊寿のような巨大な城でも、いまや陥落しかけている。中山を生かしつづけるのは、無形という国の形しかない。

 

満足した者に行動は不要である。
(自己満足すると努力しなくなり、成長が止まり、やがて滅びてしまう)

 

宿命とは、おそらくこういう残酷なものなのだろう。国を誤らせた者の数十倍の努力をしても、盛時にたどりつけない。この彼此の差異は何であるのか。
(一度失うと、取り戻すためには10倍の努力でも足りない)

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3巻

君主に親しいがゆえにその言が用いられると考えがちであるが、現実はそうともいえぬ。昵狎が深まると、たがいの言が軽くなる。たがいに尊敬するとは、ほどのよい距離をとりあうことである。

 

まえをみすぎれば足もとがおろそかになる。足もとをみすぎればまえがおろそかになる。人の歩行はむずかしい。

 

君主は自分の喜怒哀楽を民におしつけてはならず、民を喜ばせる存在に徹するべきであり、それも民の喜びを自分の喜びとしなければならない。それができぬ王は、いかなる大国の王でも、名ばかりの王であり、民の支持をえられない。

 

「なぜ」という問いが、実生活のなかから生じなければ知恵は身につかない。

 

4巻

主父という非凡人は、非凡であるがゆえに、おのれの力を信じすぎて挫折することになったであろう。遠くはみえても、足もとのみえない人である。

 

楽毅は孟嘗君のことばを体内にいれ、温めなおしている。孟嘗君の分析と見解をまず全面的にうけいれ、それらを、自分の思考と行動を立たせやすいように整理しなおし、ひとつの角度と傾斜をつくる、というのが聞き手のつとめでである。

 

兵を楽しむ者は亡び、勝ちを利とする者は辱められる。

 

大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。

 

小国が大事をおこなうときは、他国にたいして頭も腰も言辞も卑くして、用心をおこたらず、慎重に進捗をはからねばならない。

 

雪路をゆくから使いに重みが生ずるのです。
(雪深い間に他国を訪問する意義)

 

政治とはおもいやりである、と極言してもよい。政治能力のなさとはおもいやりの欠如である。

 

利なき利に、大利がある。そうおもわれませんか。

 

この人は、非凡なことをおこなっても、平凡にみせるにちがいない。
(この人とは孟嘗君のこと)

 

軽々しい理解のしかたをする者は、おのれの深化のための端緒をつかめないまま、時勢にながされてゆくだけだろう。

 

名将とは、敵の将兵に畏悪されると同時に尊敬される者をいう。ひとつの戦いが、今後の戦略に有利に働くようでなくてはならず、目にみえぬ連続性を創ることが肝要である。

 

けっきょく欲を絶つことが、自分を守ることになる。駐留している燕兵が私曲をおこなったら、厳罰に処す、と通達せよ。

 

わたしとなんじとは、ちがう。わたしをみならえば、かえって失敗するかもしれぬ。敵をあなどらず、おのれの勇を恃まず、自軍の兵をいたわることを忘れるな。

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

楽毅(一) (新潮文庫)

 

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