「失敗の本質」の名言まとめ

「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」の名言をまとめていきます。

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失敗の本質

序章

大東亜戦争での日本は、どうひいき目に見ても、すぐれた戦い方をしたとはいえない。

 

一章 1 ノモンハン事件

やってみなければわからない、やれば何とかなる、という楽天主義に支えられていた日本軍に対して、ソ連軍は合理主義と物量で圧倒し、ソ連軍戦車に対して火焔瓶と円匙で挑んだ日本軍戦闘組織の欠陥を余すところなく暴露したのである。

 

数的には日本軍と大差なく、精鋭な日本軍をもってすれば、鈍重なソ連・外モンゴル軍を容易に撃破できると考えられたのである。

 

関東軍は、中央部が国境紛争不拡大方針をとっており、とくに航空機による越境爆撃には絶対反対の立場をとっていることを十分承知していたため、この作戦については一切中央部に秘匿して準備を進めた。

 

六月下旬になるとソ連軍陣地はさらに強化され、警戒も厳重になり、捜索活動はきわめて困難になっていたが、敵情を十分に把握できなかった関東軍の作戦参謀は、ソ連軍が関東軍の攻撃を避けて戦線を離脱するのではないかと心配し、早急に攻撃を実施することに努めた。

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一日攻撃が遅れれば、それだけ敵に兵力増加の機会を与え、陣地と火力を強化させ、その結果日本軍の攻撃はますます困難になるとして、十分な火力の増強を待たずに追撃思想による攻撃を続行し、損害を重ねていった。

 

日本軍が固執した白兵突入作戦は、貧弱な生産力が兵士に強要した苦しまぎれの戦法であり、多数の重砲や戦車を動員する戦闘方式は巨大な生産力と不可分のものであった。

 

第一次世界大戦において見られたような本格的近代戦の実戦的体験を持たない日本軍は、物力の意味を理解していなかった。

 

研究討議の結果は、低水準にある日本軍の火力戦闘能力を飛躍的に向上させる必要がある、というものであったが、一方、物的戦力の優勢な敵に対して勝利を収めるためには、日本軍伝統の精神威力をますます拡充すべきである、とも述べている。

 

日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である。(ソ連軍司令官)

 

2 ミッドウェー作戦

戦闘は錯誤の連続であり、より少なく誤りをおかしたほうにより好ましい帰結をもたらす。

 

目的のあいまいさと指示の不徹底。
目的と構想を、山本(司令官)は第一機動部隊の南雲に十分に理解・認識させる努力をしなかった。

 

航空決戦では先制奇襲が大原則なのである。

 

攻撃力偏重の戦略・用兵思想
防御の重要性の認識の欠如。
ダメージ・コントロールの不備。

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3 ガダルカナル作戦

大本営陸軍部は、米軍の反攻開始は早くても昭和18年以降であるという希望的観測に傾いていた。

 

一木清直大佐は、帝国陸軍の伝統的戦法である白兵銃剣による夜襲をもってすれば、米軍の撃破は容易であると信じていた。

 

之を要するに敵を甘く見すぎたり。火器を重用する防御は敵の本領なり。

 

その悲観的事実認識は必勝の信念に燃える司令部の反感を買った。

 

「之では金城鉄壁に向かって卵をぶっつけるようなもので、失敗は戦わなくても一目瞭然だ」(川口少将)

 

陸海軍の間では、「相互の中枢における長年の対立関係が根底にあって、おのおの面子を重んじ、弱音を吐くことを抑制し、一方が撤退の意思表示をするまでは、他方は絶対にその態度を見せまいとする傾向が顕著であった」

 

陸軍における兵站線への認識には、基本的に欠落するものがあった。すなわち補給は敵軍より奪取するかまたは現地調達をするというのが常識的ですらあった。

 

本来的に、第一線からの積み重ねの反覆を通じて個々の戦闘の経験が戦略・戦術の策定に帰納的に反映されるシステムが生まれていれば、環境変化への果敢な対応策が遂行されるはずであった。

しかしながら、第一線からの作戦変更はほとんど拒否されたし、したがって第一線からのフィードバックは存在しなかった。大本営のエリートも、現場に出る努力をしなかった。

 

組織のなかでは合理的な議論が通用しなかったし、状況を有利に打開するための豊富な選択肢もなかった。それゆえ、帝国陸軍の誇る白刃のもとに全軍突撃を敢行する戦術の墨守しかなされなかったのである。

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4 インパール作戦

このような作戦の失敗と犠牲の大きさ、異常さを生み出した原因の大半は、つまるところ、作戦構想自体の杜撰さにあったといわれる。

 

彼(牟田口中将)は第一八師団長当時に二一号作戦に不同意を唱えたことを、「必勝の信念」に欠けた態度であり、軍の威信を汚す結果となったと反省し、今後はけっして消極的な意見具申を行わず積極的に上司の意図を体してその実現を図ろう、と決意していた。

 

牟田口がアラカン山系への防衛線推進構想からインド進攻論へと飛躍することを最も強く支えたものは、このような彼の個人的心情であったかもしれない。

 

アッサム進攻論を初めて聞かされた幕僚陣は一同驚愕したばかりでなく、軍司令官の積極的構想を翻意させる余地もないことを知らされた。

 

牟田口がインパール攻略論を唱えたとき、河辺(軍司令官)は「何とかして牟田口の意見を通してやりたい」と語り、方面軍高級参謀片倉衷少将の言葉を借りれば、軍司令官は私情に動かされて牟田口の行動を抑制しようとはしなかった。

 

牟田口の心情をよく呑み込んでいると自負していた河辺は、彼に対して作戦目的を十分徹底させるだけの努力を払わなかった。

 

「一五軍の考は徹底的と云ふよりは寧ろ無茶苦茶な積極案」(竹田宮参謀)

 

またしても軍事的合理性よりは、「人情論」、組織内融和の優先であった。

 

五つの問題点すべてについて綿密な検討を加え確信を得たうえでの決断であったのではない。

軍事的合理性以外のところから導き出された決断がまず最初になされ、あとはそれに辻褄を合わせたものでしかなかった。

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牟田口によれば、作戦不成功の場合を考えるのは、作戦の成功について疑念を持つことと同じであるがゆえに必勝の信念と矛盾し、したがって部隊の士気に悪影響を及ぼすおそれがあった。

 

第一五軍が敵の企図を少しもつかめなかったのに対し、英印軍はまず、事前の情報戦において勝利を収めていた。戦略的急襲の効果は、生まれるはずもなかった。

 

牟田口は、初めから兵站を重視しなかった。
膨大な兵站部隊を必要とするのは、主としてインパール攻略後のことになろうと考えた。

 

英印軍は中国軍より弱い。果敢な包囲、迂回を行なえば必ず退却する。補給を重視し、とやかく心配するのは誤りである。マレー作戦の体験に照らしても、果敢な突進こそ戦勝の近道である。(牟田口)

 

師団長はインパール作戦中、師団の全兵力を掌握できなかった。

そのうえ、作戦発起直前には、師団の中核たる作戦主任参謀と歩兵団長が交代するという理解しがたい定期人事異動までなされた。

 

実施に移されたインパール作戦の細部を、ここで繰り返す必要はないであろう。その異常さと悲惨さは、今やあまりにもよく知られている。

 

人間関係や組織内融和の重視は、本来、軍隊のような官僚制組織の硬直化を防ぎ、その逆機能の悪影響を緩和し組織の効率性を補完する役割を果たすはずであった。

しかしインパール作戦をめぐっては、組織の逆機能発生を抑制・緩和し、あるいは組織の潤滑油たるべきはずの要素が、むしろそれ自身の逆機能を発現させ、組織の合理性・効率性を歪める結果となってしまったのである。

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5 レイテ海戦

海軍は16日の偵察によって、敵空母、機動部隊がほとんど無傷で健在であるのを確認したが、この事実を大本営陸軍部には知らせなかったのである。

 

もし陸軍が偵察機を出していれば、三日前には、この大部隊を補足できたであろう。しかし、陸軍は台湾沖航空戦での大勝利(誤報)を疑っていなかった。

 

これらの事実は、もはや常道戦法ではとうてい勝ち目のないことを物語っていた。
連合艦隊司令部を中心とする作戦中枢は、こうした状況についてかなり正確に認識していた。

 

結論的にいえば、日本軍のおかした失策が米軍のそれより大きかったということである。

 

二章

日本軍は、各々の作戦において組織として戦略を策定し、組織としてこれを実施し、結果的に組織として敗れたのである。

 

いかなる軍事上の作戦においても、そこには明確な戦略ないし作戦目的が存在しなければならない。目的のあいまいな作戦は、必ず失敗する。

 

上級司令部は現地の状況変化に対して鈍感であったが、現地軍も、これに対する意見具申に意を払うことなく、独自に作戦の基本方針を変更するという形で対応した。

 

日本軍の失敗の過程は、主観と独善から希望的観測に依存する戦略目的が戦争の現実と合理的論理によって漸次破壊されてきたプロセスであったということができる。

 

最終目標は、太平洋を渡洋してくる敵の艦隊に対して、決戦を挑み一挙に勝敗を決するというのが唯一のシナリオであった。

 

短期決戦志向の戦略は、前で見たように一面で攻撃重視、決戦重視の考え方とむすびついているが、他方で防御、情報、諜報に対する関心の低さ、兵力補充、補給・兵站の軽視となって表われるのである。

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空気が支配する場所では、あらゆる議論は最後には空気によって決定される。

 

ノモンハンでソ連軍の戦力を過小評価したのも、インパールで英印軍の後退意図を見誤ったのも客観的な現実を直視せず、また実行した結果を的確にフィードバックし、戦略の修正を迅速に行なわなかった結果であるといえよう。

 

日本軍のエリートには、概念の創造とその操作化ができた者はほとんどいなかった。

 

日本軍の最大の特徴は「言葉を奪ったことである」

 

戦術の失敗は戦闘で補うことはできず、戦略の失敗は戦術で補うことはできない。

 

戦略は進化すべきものである。

 

海戦要務令がある種の経典のような形で硬直化してくるにつれ、バリエーションの発生を殺すような逆機能現象が現れてくる。

 

陸軍の戦略オプションの幅の狭さについては、多言を要しない。ノモンハンで夜襲戦法が通用しなかったのは、それにさきだつ張鼓峰事件で日本軍伝統の夜襲が功を奏したためである。

 

「海軍力とはあらゆる兵器、あらゆる技術の総合力である。戦艦や航空機や上陸部隊、商船隊のみならず、港も鉄道も、農家の牛も、海軍力に含まれる」(ニミッツ大将)

 

およそ日本軍には、失敗の蓄積・伝播を組織的に行うリーダーシップもシステムも欠如していたというべきである。

 

失敗した戦法、戦術、戦略を分析し、その改善策を探求し、それを組織の他の部分へも伝播していくということは驚くほど実行されなかった。

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日本軍はときとして事実よりも自らの頭のなかだけで描いた状況を前提に情報を軽視し、戦略合理性を確保できなかった。

 

日本軍は結果よりもプロセスを評価した。個々の戦闘においても、戦闘結果よりはリーダーの意図とか、やる気が評価された。

 

個人責任の不明確さは、評価をあいまいにし、評価のあいまいさは、組織学習を阻害し、論理よりも声の大きな者の突出を許容した。

 

日本軍は既存の知識を強化させるという面ではまことによく学習したといえる。そして、実際、帝国陸軍の白兵銃剣主義の成果はけっして悪いものではなかった。

 

組織学習には、組織の行為と成果との間にギャップがあった場合には、既存の知識を疑い、新たな知識を獲得する側面があることを忘れてはならない。

 

帝国陸海軍においては、戦略・戦術の原型が組織成員の共有された行動様式にまで徹底して高められていたのである。その点で、日本軍は適応しすぎて特殊化していた組織なのであった。

 

軍事組織は、平時から戦時への転換を瞬時にして行なえるシステムを有していなければならない。日本軍には、高級指揮官の抜擢人事はなかった。

 

予測のつかない不測事態が発生した場合に、とっさの臨機応変の対応ができる人物は、定型的知識の記憶にすぐれる学校秀才からは生まれにくいのである。

 

日本軍の現地軍は、責任多く権限なしともいわれた。責任権限のあいまいな組織にあっては、中央が軍事合理性を欠いた場合のツケはすべて現地軍が負わなければならなかった。

 

創造的破壊は、ヒトと技術を通じて最も徹底的に実現される。ヒトと技術が重要であるのは、それらがいずれも戦略発想のカギになっているからである。

 

日本軍の零戦は、それが傑作であることによって、かえって戦略的重要性を見る眼をそいでしまった。

 

およそイノベーション(革新)は、異質なヒト、情報、偶然を取り込むところに始まる。官僚制とは、あらゆる異端・偶然の要素を徹底的に排除した組織構造である。

 

戦略がなければ、情報軽視は必然の推移である。

 

日本軍の最大の失敗の本質は、特定の戦略原型に徹底的に適応しすぎて学習棄却ができず自己革新能力を失ってしまった、ということであった。

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

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失敗の本質―日本軍の組織論的研究

 

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