「三四郎(夏目漱石)」の名言・台詞まとめ

「三四郎(夏目漱石)」の名言・台詞をまとめていきます。

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三四郎

元来あの女は何だろう。あんな女が世の中に居るものだろうか。女と云うものは、ああ落付いて平気でいられるものだろうか。

無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するに行ける所まで行ってみなかったから、見当が付かない。思い切ってもう少し行ってみると可かった。けれども恐ろしい。(三四郎、以降は無記入)

 

三四郎は全く驚いた。要するに普通の田舎者が始めて都の真中に立って驚くと同じ程度に、又同じ性質に於て大いに驚いてしまった。今までの学問はこの驚きを予防する上に於て、売薬程の効能もなかった。

 

この激烈な活動そのものが取りも直さず現実世界だとすると、自分が今日までの生活は現実世界に毫も接触していない事になる。洞が峠で昼寐をしたと同然である。

 

自分の世界と、現実の世界は一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。甚だ不安である。

 

現実世界はどうも自分に必要らしい。けれども現実世界は危なくて近寄れない気がする。

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ただ生活に疲れているという句が少し気に入った。成程疲れ出した様でもある。
けれども大いに疲れた顔を標榜するほど、人生観のハイカラでもなかった。

 

「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうから面白い。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」
「みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻訳する事の出来ない輩には、自然が毫も人格上の感化を与えていない」(広田先生)

 

「そこが先生の先生たる所で、あれで大変な理論家なんだ。細君を貰ってみない先から、細君はいかんものと理論で極っているんだそうだ。愚だよ。だから終始矛盾ばかりしている」(与次郎)

 

結果は頗る平凡である。けれどもこの結果に到着する前に色々考えたのだから、思索の労力を打算して、結論の価値を上下しやすい思索家自身から見ると、それ程平凡ではなかった。

 

研究心の強い学問好きの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなる訳である。人情で物をみると、凡てが好き嫌いの二つになる。

 

「迷子の英訳を知っていらしって」「教えて上げましょうか」
「迷える子(ストレイシープ)──解って?」(美禰子)

 

迷える子(ストレイシープ)という言葉は解った様である。又解らない様でもある。解る解らないはこの言葉の意味よりも、寧ろこの言葉を使った女の意味である。

 

「いないと自ら欺いているのだ。──どんな社会だって陥欠のない社会はあるまい」(与次郎)
(三四郎がイプセンにかぶれていないと話した時)

 

「細工に落ちると云うが、僕のやる事は自然の手順が狂わない様にあらかじめ人力で装置するだけだ。自然に背いた没分暁の事を企てるのとは質が違う。細工だって構わん。細工が悪いのではない。悪い細工が悪いのだ」(与次郎)

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三四郎は近頃女に囚われた。恋人に囚われたのなら、却って面白いが、惚れられているんだか、馬鹿にされているんだか、怖がって可いんだか、蔑んで可いんだか、廃すべきだか、続けべきだか訳の分らない囚われ方である。

 

「昔しの偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある」(広田先生)

 

「それ自身が目的である行為程正直なものはなくって、正直程厭味のないものは無いんだから、万事正直に出られない様な我々時代の小むずかしい教育を受けたものはみんな気障だ」(広田先生)

 

三四郎は馬鹿々々しいと思った。けれども馬鹿々々しいうちに大いなる慰藉を見出した。母は本当に親切なものであると、つくづく感心した。

 

(お金を)返すと用がなくなって、遠ざかるか、用がなくなっても、一層近付いて来るか。

 

十一

「けれども世の中の事はみんな、あんなものだと思ってるから、若い人程正直に驚きはしない」(広田先生)

 

十二

「われは我が愆(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり」(美禰子)
(旧約聖書よりの引用)

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

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