「車輪の下で(ヘルマン・ヘッセ、松永美穂 訳)」の名言・台詞をまとめていきます。
車輪の下で
第1章
ハンス・ギーベンラートの才能については疑う余地はなかった。
それによって彼の将来はもう決定され、揺るぎないものになっていた。
なぜならシュヴァーベンという土地では、両親が金持ちでない限り、
才能ある男の子にはたった一つの細い道しか用意されていなかったからだ。
実際には、比例算はとても重要で、いくつかの主要科目以上に重要なのだった。
なぜなら数学は論理的な能力を養うものであり、
明晰で冷静で実り豊かなあらゆる思考の根本であるからだ。
(受験前日) 小さな自分の部屋で、彼(ハンス)はその後長いこと明かりもつけずに座っていた。
自分が自分の主人でいられ、誰にも邪魔されることのないその小部屋は、
受験がもたらしてくれた唯一の恵みといってよかった。
この部屋で、失われたすべての少年時代の愉しみよりも貴重な数時間を過ごしたこともあった。
誇りと陶酔と勝利への意欲に満ちた、夢のような不思議な時間。
そのなかで彼は学校や試験やすべてを超えて、より高い存在に思いを馳せ、
憧れに胸を焦がしたのだった。
伯母の親切やおしゃべり、意味もなく長く座って、
父親がくりかえし励ましの言葉を言うのを聞いていたことなどのせいで、
少年は完全に落ち込んでしまった。
こうした胡散臭い裏通りの世界が自分から失われてしまった、とうっすらと感じた。
だがその代わりに何か生き生きとした価値のある事柄を得たわけでもないのだ。
もしほんとうに神学校にもギムナジウムにも行けず、
大学でも勉強できなかったらどうなるんだろう、と想像してみた。(ハンス・ギーベンラート)
そうなったら見習いとしてチーズ屋に入るか、事務所で働くのだろう。(ハンス)
そうして一生のあいだ、自分が軽蔑し、
絶対に差をつけてやりたいと思っていた普通のみじめったらしい人々の一人として生きていくことになるのだ。(ハンス)
「(二番の成績で合格?) もしそうとわかっていたら」
「完璧に最優秀を取ることもできたのに」(ハンス)
少年はめまいを感じながら外に出た。
菩提樹が立ち、市の立つ広場に日光が注いでいるのを見た。
すべてがいつもと変わらなかったが、すべてがいつもより美しく、
意味があり、喜ばしげに見えた。
第2章
なんて長いあいだ、こうしたものを見ないで過ごしてきたのだろう!
彼は大きく深呼吸した。
まるで失われたよき歳月を倍にして取り戻そうとするかのように。
もう一度、恥じらうことも心配することもなく、小さな少年であろうとするかのように。
でもいまではもう行かない。
決まりを破るにはもう大人になりすぎていた。
なぜなら生は死よりも強く、信仰は懐疑よりも強かったから。
彼は絶対に優等生になりたかった。
いったい何故だろう?
それは自分でもわからなかった。
数学の勉強と授業は、平らな国道を歩くようなものに思えた。
いつも前に進むことはでき、昨日はわからなかったことがわかるようになる。
しかし、突然視界が開けるような山に登ることはないのだった。
第3章
人間は一人一人なんと違うことだろう、
そして育つ環境や境遇もなんとさまざまなことだろう!
政府は自らが保護する学生たちのそうした違いを公平かつ徹底的に、
一種の精神的なユニフォームやお仕着せによって平均化してしまうのである。
誇らしく立派な気持ちと美しい希望が親たちの胸をふくらませており、ただの一人も、
自分の子どもを経済的な優遇と引き換えに国に売り渡すのだとはおもってもいなかった。
まるで内気な少女のように、ハンスは座して、誰かが迎えに来てくれるのを待っていた。
自分よりも強くて大胆な誰かが、自分を引っさらい、無理やり幸せにしてくれることを。
「もしぼくたちの誰かが少しギリシャ的な生き方をしようと試しでもしたら」
「クラスを追い出されるだろう」(オットー・ハルトナー)
「それなのにぼくたちの部屋はヘラスなんていうんだ!」
「これは皮肉だよ!」(ハルトナー)
「どうして『紙くずかご』とか『奴隷の檻』とか『不安の筒』」
「なんていう名前じゃないんだろう?」(ハルトナー)
「古典なんてみんなみゃかしだよ」(ハルトナー)
ヘブライ語にはとりわけ苦労させられた。
太古のエホバの奇妙な言語は、もろく枯れ果て、
それでいて秘密を抱いて生きている木のように、若者たちの眼前で、
節だらけの謎めいた姿で異様に育っていった。
枝分かれのすばらしさで人目を引き、
不思議に色づいて香りを放つ花によって相手を驚かせながら。
「そんなの日雇い労働だよ」
「きみはこれらの勉強が好きでもないし自発的にやってるわけでもない」(ヘルマン・ハイルナー)
「そうじゃなくて先生や両親が怖いだけなんだ」
この若き詩人(ハイルナー)も、理由のない、
ちょっとなまめかしい憂鬱に駆られることがあった。
その原因は一つには子どもらしい魂との静かな決別にあり、
もう一つには力や予感や欲望といったものが意味もなく過剰になっていることにもあり、
さらにもう一つは性的成熟に伴う理解不可能な暗い圧迫感にあった。
変わり者との友情が自分を疲弊させ、
自分のなかのこれまで触れられなかった部分を病気にしている、
と彼(ハンス)はぼんやり感じていた。
まだいまなら歩み出し、勇敢さを示すことができたかもしれないが、
一瞬一瞬それは難しくなっていった。
そして彼が予感する前に、裏切りはすでに現実となっていた。
第4章
忘れ去ることや後悔によって償うことのできない罪や怠慢があるのだとハンスは悟った。
そこ(あの世)では成績や試験や成功などは問題ではなく、
心が清らかであるか汚れているかですべてが測られるのだ。
教師たちは死んだ生徒を、生きている生徒とはまったく違う目で眺めるものだ。
いつもならしばしば何気なく若者たちに罪を着せてしまうのだけれど、
死んだ者を目にしたその瞬間には、どんな生命にも若さにも価値があり、
それを再び取り戻すことはできないという確信にとらえられるのだ。
「ぼくはあのとき臆病で、きみを見捨ててしまった」(ハンス)
「でもそれはぼくなりの理想の追求の仕方だったんだ」
「ぼくはそれ以上のものを知らなかったんだから」(ハンス)
同級生にとってはハイルナーは好ましくない存在であり、ハンスは理解できない人間だった。
そして同級生たちが結んでいる無数の友情は、
当時はまだ無害な子どもの遊びの域を出ていなかった。
天才と教師とのあいだには古代から深い溝が横たわっている。
こうした天才たちが学校でやらかすことは、教師陣にとっては最初から恐怖なのだった。
後々になって我が国民の宝を豊かにしてくれるのは相も変わらず、
とりわけ学校の教師から憎まれ、しばしば罰せられ、道を踏み外し追放された輩なのである。
しかし多くの者は──どれくらいの数になるか誰が知ろう?──
静かな反抗のなかで消耗し、破滅していくのだ。
「手を抜いちゃいかんよ、さもないと車輪の下敷きになっていまうからね」(校長)
「(束縛?) 自分でもよくわかりません」
「でもぼくたちはお互い好きだし、彼から離れるとしたらぼくは臆病者だと思います」(ハンス)
彼はただ、全般的な自然の営みを見、そこらじゅうに芽吹いている色彩を眺め、
若葉の香りを呼吸し、空気が前よりも柔らかく、
燃え立つようであるのを感じ、感嘆しながら野を歩いていった。
それらは明るくて優しく見慣れない夢であって、
絵画や珍しい木々の並木のように彼の周りを囲み、そのなかで何が起こるわけではなかった。
この情熱的な少年(ハイルナー)はやがて、
たくさんの天才的いたずらや奇行をくりかえした後で、
人生の苦しみによって厳しい試練のときを与えられ、
英雄とはいわないまでも率直で立派な男になったのだった。
第5章
誰も、ハンスの細い顔に浮かぶどうしようもない微笑の背後で、
破滅しつつある魂が苦しんでおり、
溺れそうになりながら心配そうに水面で辺りを見回しているのだということに気づいてはいなかった。
そして、学校と父親や何人かの教師の野蛮な虚栄心が、
無邪気に広がっていた穏やかな子どもの魂のなかで遠慮会釈なく暴風雨のように吹き荒れることで、
このもろくて繊細な人間をすっかり追い詰めてしまっているとは、誰一人考えなかったのだ。
本を読むことも助けにはならなかった。
読み始めるといつも頭と目が痛くなってしまうし、
どの本を開いてもすぐに、
神学校時代の幽霊とそこで感じた不安が目を覚ましてしまい、
彼を息のつまる不吉な夢の世界の片隅に追いやり、
燃えるようなまなざしで呪縛するのだった。
自殺の準備と確信とは彼の心境に有益な影響を与えた。
運命の枝の下に座りならが過ごした多くの時間のなかでは人生の圧迫が彼から去り、
ほとんど喜ばしい気持ちが芽生えてきた。
第6章
ハンスは植物とともに枯れてしまいたい、眠り込み死んでしまいたい、と願ったが、
自分の若さがそれに抗い、静かな粘り強さで生に執着していることに苦しんだ。
すべてが変わってしまった。
周囲にいる人々やその行動は、色とりどりに笑いさざめく雲のような存在になってしまった。
個々の声や悪態、笑い声などはぼんやりと濁ったざわめきになり、
川と古い橋は、絵のなかの光景のように遠く見えていた。
第7章
こうしてハンスは、もしかしたらあまりにも早く、愛の秘密を彼なりに体験してしまった。
その秘密は彼にとって、ほとんど甘い体験とはいえず、苦いものを多く含んでいた。
目を覚ますと自分が一人ぼっちで、秋の夜の冷たい孤独に包まれていることがわかり、
恋人への憧れに苦しみ、涙で濡らした枕にうめきながら顔を押し付けるのだった。
人間と歯車とベルトは同じように働き続けた。
そうやってハンスは、生まれて初めて、労働の尊さを理解したのだった。
ハンスは自分という小さな人間とちっぽけな人生が、
大きなリズムのなかに組み込まれるのを見た。
こうしたできごとをみんなは事務的なきまじめさで話し、いかにも楽しそうに、
世の中にはいろいろなすばらしい才能の持ち主や奇妙な人間がいて、
なかにはすごい変人もいるのだ、という認識を深めていた。
こうした心地よさと真剣さは、
行きつけの酒場でくだをまく小市民たちの古き敬愛すべき遺産であり、
飲酒や政治談義、喫煙や結婚、死などと同様に、若い人々に模倣されているのだった。
そのあたりから、彼の奇妙な陽気さも少しずつ影を潜めていった。
自分が酔っているのがわかり、酒を飲むのももう愉快ではなくなった。
そして遥か彼方に、あらゆる災いが待ち受けているのが見えた。
ハンスは、すでに冷たく静かになって、黒い川をゆっくりと谷の下流に向かって流れていた。
吐き気や恥じらいや苦しみは彼から取り去られていた。
ハンスがどうして川に落ちたのか、知る者は誰もいなかった。
最後まで読んで頂きありがとうございました。