「舞姫(森鴎外)」の名言・台詞をまとめていきます。
舞姫
石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも、徒なり。今宵は夜毎にここに集ひ来る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。
(本作の書き出し)
げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそ猶心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしを知りたり、人の心の頼みがたきは言うも更なり、われとわが心さへ変り易きをも悟り得たり。
余は模糊たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽ちこの欧羅巴の新大都の中央に立てり。何等の光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色沢ぞ、我心を迷はさむとするは。
今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく妥ならず。
わが心はかの合歓という木の葉に似て、物触れば縮みて避けんとす。
耐忍勉強の力と見えしも、皆自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、唯だ一条にたどりしのみ。
彼人々の嘲るはさることなり。されど嫉むはおろかならずや。この弱くふびんなる心を。
声を呑みつつ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし。
この青く清らかにて物問ひたげに愁を含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。
嗚呼、何等の悪因ぞ。この恩を謝せんとて、自ら我僑居に来し少女は、ショオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして終日兀坐する我読書の窻下に、一輪の名花を咲かせてけり。
されど詩人ハツクレンデルが当世の奴隷といひし如く、はかなきは舞姫の身の上なり。
公使に約せし日も近づき、我命はせまりぬ。このままにて郷にかへらば、学成らずして汚名を負ひたる身の浮ぶ瀬あらじ。さればとて留まらんには、学資を得べき手だてなし。
我学問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。
読みては又読み、写しては又写す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自ら綜括的になりて、同郷の留学生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。
「何、富貴」
「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたし友にこそ逢ひには行け」
学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかかづらひて、目的なき生活をなすべき。今は天方伯も唯だ独逸語を利用せんの心のみなり。
伯が心中にて曲疵者なりなんど思はれんは、朋友に利なく、おのれに損あればなり。
彼少女との関係は、縦令彼に誠ありとも、縦令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず。慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して断てと。
この山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果して往きつきぬとも、我中心に満足を与へんも定かならず。
この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日毎に書を寄せしかばえ忘れざりき。
又程経てのふみは頗る思ひせまりて書きたる如くなりき。文をば否という字にて起したり。否、君を思ふ心の深き底をば今ぞ知りぬる。
嗚呼、余は此書を見て始めて我地位を明視し得たり。恥かしきはわが鈍き心なり。
「わが心の楽しさを思ひ玉へ。産れん子は君に似て黒き瞳子をや持ちたらん。この瞳子」
「嗚呼、夢にのみ見しは君が黒き瞳子なり。産れたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせ玉はじ」
我脳中には唯々我は免すべからぬ罪人なりと思ふ心の満ち満ちたりき。
嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。
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