「坐りませんか。『しあわせ』を感じる禅流生活(板橋興宗)」より名言をまとめていきます。
坐りませんか。『しあわせ』を感じる禅流生活
まえがき
私にとって「禅」とはなにかと一般の方に聞かれましたら、「ごく自然な人」になることだと答えています。
座禅から何かを得ようとは思わなくなりました。ただ、息をしていることに「いのち」の喜びを感じているのです。
第1章
ふと自分を見失う見失うことがあったら、まずは、自らの身体の感触を確かめてください。そして、頭だけの浮ついたものではなく、大地をしっかりと足の裏で感じてみてください。
ごくあっさりとした、ごく当たり前の人と人とのふれあいこそが、禅そのものです。特別なことはなにもありません。
この自然な様子を、禅では「喫茶去」といいます。さらに、この自然に振る舞う心を、禅では「平常心」といいます。
「ごくあたりまえ」が最高の生き方であると気づくことに、禅の極意があるのです。
「自然」や「平常心」をつくってはいけません。あわてたときはあわてながら、イライラはイライラながらの平常心です。
脳が静かになっている時は、考えるべきことと、考えても仕方が無いことを自然に判断することができます。そして、脳を静かにするために、坐禅はあるのです。
「只管打坐」という言葉があります。難しくみえますが、じつは坐禅のことです。ただひたすらに坐禅をする。坐に打ち込むという意味です。
何事であれ、一つのことを「ひたすら」にやっていれば、その極地は「ただ」に通じます。
何事も道を極めるためには、まずは姿勢から。
第2章
坐禅は、ごく自然に坐ることにつきます。「身も心も開け放し」になることが肝腎です。
努力なくして成果はなし。言うは易く、行なうは難しです。
くよくよ考えないために、どうしたらいいか。いやなときも「ありがとさん」。いいときも「ありがとさん」。1000回やるつもりでやってみてください。
くよくよ考えないために、どうしたらいいか。この答えは、簡単です。言葉で考えないようにするのです。
いま、会っている一瞬。その瞬間がすべてで、そのときに運がいいも悪いもないわけです。後先のことを考える癖がついているから、運が悪いのいいのと、ついつい口にしてしまう。
何事も、意味を考えながらやるようでは、ホンモノとはいえません。給料のことばかりを考えながら、仕事をしているようなものです。
第3章
私たちは、とかく頭の理解で事をすますことが多いものです。
しかし、心の底から本当にそうだと得心し、自分自身に満足することは、いかに大切なことかお分かりいただけるでしょうか。
第4章
真剣に生きようとしている人が、一切の希望を失うということは、人間的な雑念妄想を完全に放下したことになります。そこから生命力が復活するということもあるのです。
人間は弱いものです。一人では生きていけない。だから、ともに生活し、お互いを気遣うようになった。その中で挨拶が必要になった。それがごく自然な姿です。
喜んでいる人とは、ともに心から喜ぶ。悲しんでいる人に会えば、ともに心から悲しむ。そういう人の心を、宗教心というのです。
自分がだめだということを、本当に自覚している人は、むしろ偉大な人です。
他律があってこそ自律は保てる。人間は、傍目を気にしながら生きてこそ、まともな生活をおくることができる生き物なのかもしれません。
無理はいけない。自分の限界を知り、節制する心構えが大切です。
第5章
無心の心境で打ち込んだときにこそ、「しあわせ」感、言い換えるとすれば心の充実感が、身体全体に満ち溢れてくるのです。
私たちは、美味しいものを求めて歩きたがります。でも意外に、美味しく食べるということを忘れています。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。