「坐りませんか。『しあわせ』を感じる禅流生活」の名言まとめました

「坐りませんか。『しあわせ』を感じる禅流生活(板橋興宗)」より名言をまとめていきます。

住職の方が「禅」について、お寺の軒先でお茶を飲みながら世間話をするように、優しく語りかけている。
禅を身近に感じることが出来る一冊です。

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座禅

しかし、座禅から何かを得ようとは思わなくなりました。
ただ、息をしていることに「いのち」の喜びを感じているのです。

座禅として考えると難しいため、あらゆる行動として考えたい。
ほとんどの人は、結果を求めて行動する。
勉強や仕事はもちろん、友達付き合いですら何らかの結果を求める。
結果を求めるから、結果が出ないことに悩み苦しむことになる。
結果は後から付いてくるもの。まずはその行動だけに専念したいですね。

自分を見失ったとき

ふと自分を見失う見失うことがあったら、まずは、自らの身体の感触を確かめてください。
そして、頭だけの浮ついたものではなく、大地をしっかりと足の裏で感じてみてください。

言葉通りです。
頭で考えてもいい結果は生まれない。実際に解決したためしも無い。
そのときは自分の呼吸、指先、足の裏、どこでもいいので意識をそちらに移していく。
その時間、悩むことはできない。
少しでいいので、そのような時間を大切にしたい。

日常での出来事

ごくあっさりとした、ごく当たり前の人と人とのふれあいこそが、禅そのものです。
特別なことはなにもありません。
この自然な様子を、禅では「喫茶去(きつさこ)」といいます。
さらに、この自然に振る舞う心を、禅では「平常心(びょうじょうしん)」といいます。

自然に普通に対応することが、禅と言っている。
しかしこの普通というのが難しい。
特定の人なら簡単だが、全員に普通に対応できればいいのですがね。

平常心

「自然」や「平常心」をつくってはいけません。
あわてたときはあわてながら、イライラはイライラながらの平常心です。
理屈で考えてはいけませんよ。

人は「落ち着かなくては」「集中しなければ」など色々と思うが、はっきりいって出来ない。
出来るくらいなら悩んでいない。
「出来ないんだから、出来ないなりにやればよい」ぐらいの感じがいいですね。

脳の状態

脳が静かになっている時は、考えるべきことと、考えても仕方が無いことを自然に判断することができます。
そして、脳を静かにするために、坐禅はあるのです。

ここでは考え方の順番に注目したい。
普通の人は考え事や悩みがあるから坐禅とか瞑想を行う。
しかし本来の坐禅は、考えをまとめるためにするのではない。
あくまで脳を静かにすることだけが目的とある。
結果として脳が静かになれば、解決することが出来るとなる。
逆に脳が静かになっても、解決しないのなら覚悟をすればいいだけ。
覚悟にもいろいろあるが、結論が出れば人は意外と出来るもの。

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只管打坐(しかんたざ)

「只管打坐」という言葉があります。難しくみえますが、じつは坐禅のことです。
ただひたすらに坐禅をする。坐に打ち込むという意味です。
何事であれ、一つのことを「ひたすら」にやっていれば、その極地は「ただ」に通じます。

これにつきまして説明はいらないと思います。
それぞれ好みでイメージしてください。

くよくよしない方法1

くよくよ考えないために、どうしたらいいか。
いやなときも「ありがとさん」
いいときも「ありがとさん」
1000回やるつもりでやってみてください。

「ありがとさん」にも1000回にも深い意味はない。本書にもそのように書かれている。
何でもいいのです。自分専用の言葉を、1000回言うぐらい繰り返しなさいと提案している。
そうすれば自然に心が収まっていく。

くよくよしない方法2

くよくよ考えないために、どうしたらいいか。
この答えは、簡単です。言葉で考えないようにするのです。

日本語で、そして頭で考えると際限がなくなる。
例えば、次のように考えてみる。
今の悩みを絵にしてください。
今の悩みを英語にしてください。
これを行って悩めたら逆にすごいです。

行動の意味

何事も、意味を考えながらやるようでは、ホンモノとはいえません。
給料のことばかりを考えながら、仕事をしているようなものです。

仕事は楽しいものではないが、給料のために仕方なくしているならそれは少し悲しい。
嫌なら辞めろということではない。
少しでも集中できること、役にたっていると思えることを増やしたい。
それが何もなく、生活のため家族のためにイヤイヤ行っているとしたら、そこに自分はいるのでしょうか?

希望を無くすことによる希望

真剣に生きようとしている人が、一切の希望を失うということは、人間的な雑念妄想を完全に放下したことになります。
そこから生命力が復活するということもあるのです。

これは重病にかかったお医者さんが回復した話だが、ここでは会社員について考えていく。
長年働いた会社をリストラされたら、まず絶望するだろう。
会社を一歩離れると、自分個人として技術が無いことにも気付かされる。
また他業種になるとただの年配者になり、若者よりも劣る存在になる。
このように一般的には悪いイメージばかりだが、必ずしもそうではない。
全てを失ったなら、逆に全く新しい考え方が生まれるもの。
いままでの会社中心の考え方を少しズラせば、むしろ楽しい毎日になる可能性がある。
ただ少しのお金が必要ですけどね。

ダメな自分について

自分のだめなところをよく知り、それを恥とするのではなく、どのように克服するばよいかを考え、実行する人は、大人物になる可能性があります。
「露堂々」という禅語があります。
堂々というのは、隠し事がないということです。
自分のありのままをさらけ出していられる人を修行の出来た人というのです。

「だめな自分」というのは知りたくも無いし、知られたくも無いこと。
しかしそれは、本来恥ずかしいことではない。
本当に恥ずかしいのは、だめな自分を認めて諦めてしまうこと。
恥を恥と思わず、ただ克服することだけを考え実行する。
そうすることが必要であり、乗り越えた先には優れた人物になると言っている。

限度

無理はいけない。自分の限界を知り、節制する心構えが大切です。

努力は必要です。しかし人間である以上限界がある。
多くの人がどんなに努力しても、100mを10秒以内で走ることは出来ない。
それでは努力が無意味なのかといえば、もちろん違う。
行動自体には意味がある。
また、「一番になる」とか「いい会社、いい学校に入る」ことも凄いこと。
しかしそれは、「目標」であって目的ではない。
目的はあくまで、「幸せに暮す」ことだと考えている。
それなのに、目標のため本来の目的を台無しにしている人が多くいる。
「何のために」ということを改めて考えていきたい。

感想

「禅」について、日常をテーマにして優しく解説している。
坐禅ばかりが取り上げられるが、それはほんの一部です。
実際はもっと広い範囲で考えるべきもの。
禅を身近に感じることが出来る一冊です。

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坐(すわ)りませんか。 「しあわせ」を感じる禅流生活

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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