「ブッダが教える愉快な生き方(藤田一照)」の名言をまとめていきます。
ブッダが教える愉快な生き方
第1章
日本人にとって、仏教は最も身近な宗教の一つです。
しかし、仏教とはどういうものかと聞かれると、
「難しくてよくわからない」と言う人がほとんどではないでしょうか。
仏教のイメージは、本来の仏教とはかなりズレています。
実は、仏教は難しいものでも、神秘的なものでもありません。
それどころか、とてもシンプルで、日常生活に直結しているのが仏教なのです。
生きることそのものから「学ぶ」ことが修行なのです。
仏教の「学び」は、学校の授業のような「学び」とは様相が異なります。
たとえるなら、学校へ行く前の、赤ちゃんの「学び」です。
仏教の出発点には、生きることが苦悩であるという大きな問題の自覚があったのです。
シッダールタの問題意識(自分はどう生きるか)からしてみれば、
そういう「学校的な学び」でいくら先生に褒められても、満足できなかったのでしょう。
体がこれほど弱っていては、心の安楽を得ることなどできない。
心にアプローチする瞑想に続き、体にアプローチする苦行にも挫折してしまったのです。
意志によって身心を統制するとは、自分が心や体を作為的に操作することです。
この「作為」が、どうやら根本的な問題らしい。
ブッダは、悪魔(煩悩)を悪魔だと知っている人でした。
それは、「私が悪魔である」と知っているということです。
覚りが修行のゴールではない。
覚ってから本当の修行が始まり、生きることすべてが修行になり、
オーガニックな「学び」が続いていく。
では、「ブッダのように修行して生きる」とは、どんな生き方でしょうか。
誤解を恐れずに一言で言えば、それは「愉快な生き方」です。
第2章
「学びたい」という欲求は、「未知」に対する深い驚きがなければ起こりません。
「自分は知るべきことをまだ知らない」「わかっていない大事な問題がある」
という洞察があって、初めて探究が始まるのです。
ブッダは、四門出遊して知った「老・病・死」に「生まれる」ことを加えて、
生老病死(しょうろうびょうし)は「ドゥッカ」であると言っています。
ドゥッカとは、パーリ語で「思い通りにならない人生の絶対事実」という意味です。
なぜ思い通りにならないかというと、私たちは「縁起」として存在しているからです。
「苦しみを乗り越える」というのは、生老病死それ自体をなくすことではなく、
それを深く理解し、受け入れて生きることです。
人生の厳粛な事実を理解し、生きる条件として素直に受け入れることは、
「愉快な生き方」のポイントです。
「学んだことの証しは、ただ一つで、何かがわかることである」(林竹二)
学ぶことは、変わること。それは、成長することでもあります。
学びのない成長はなく、成長のない学びはありません。
私たちは、何のために学ぶのでしょうか。
経済的に豊かさになるためだけではありません。
何よりも豊かな成長のためです。
第3章
何かを求めているときには必ず緊張が生まれます。
リラックスできるのは、起きていることをそのままにしておけるときだけです。
坐禅で大切なことは、そういう人間の作為的努力を手放して、
身心を自(おの)ずからなる働きに任せて調和させ、
現在に何も足そうとせず引こうともしないことです。
坐禅はやることを増やすのではなく、最大限減らしていくことで、
「仏のかたよりおこなはれて」くることを繊細に感受する営みなのです。
「仏道をならふといふは、自己をならふなり」(道元)
(現代語訳:仏道を学ぶというのは、自己を学ぶことである)
第4章
ブッダは、「闘う」でもなく「逃げる」でもない、第三の道を示しています。
それは、「触れてよく観る」ということです。
人生をつぼみのように閉じて生きるか、それとも花のように開いて生きるか。
どちらが愉快であるかは、言うまでもありませんね。
自分や世界は刻々と更新されていくものです。
だからこそ、学んだ既知に居つかずそれを手放し、
未知に対してうぶな心でワクワクしながら出会っていきましょう。
溌剌とした愉快はそういう初心に宿ります。
いつもビギナーであることが、
私たちが愉快に生きてゆく上で最も大切な学びの姿勢なのかもしれません。
最後まで読んで頂きありがとうございました。