「フェルマーの最終定理(サイモン・シン)」の名言まとめました

「フェルマーの最終定理(サイモン・シン)」の名言をまとめていきます。

 

フェルマーの最終定理

数学者も直感やインスピレーションを利用するけれども、改まった発言は完全無欠でなければならないのだ。

数学の核心は証明にある。そして証明こそは、数学と科学の他の分野とをきっぱり分かつものなのだ。(ジョン・リンチ)

 

フェルマーの最終定理の歴史は、誤った主張の残骸の山だ。(リンチ)

 

第Ⅰ章

「その問題はとても簡単そうなのに、歴史上の偉大な数学者たちが誰も解けなかったというのです。それは十歳の私にも理解できる問題でした」

「そのとき私は、絶対にこれを手放すまいと思ったのです。私はこの問題を解かなければならない、と」(アンドリュー・ワイルズ)

 

「6はそれ自身として完全な数である」(アウグスティヌス)

 

「万物は数なり」(ピュタゴラス)

 

「ここで終わりにしたいと思います」(ワイルズ)

 

第Ⅱ章

証明というものは、いったん公表されたが最後、聞きかじりの初心者までもが寄ってたかって難癖をつけたがるものなのだ。

 

確率を求める能力はわれわれの脳に遺伝的に組み込まれていてもよさそうなものだ。ところが現実には、直感はしばしばわれわれを欺くのである。

 

「チェス・プレイヤーは、ポーン(歩兵)やそれ以上の駒を捨ててかかることがあるが、数学者はゲーム全体を捨ててかかるのである」(G・H・ハーディ)

 

「神は整数を創られた。それ以外はすべて人間の創ったものである」(レオポルト・クロネッカー)

 

学問の成長は、アイディアをどれだけ巧みに伝達し、発展させられるかにかかっている。

 

「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」(ピエール・ド・フェルマー)

 

定理こそは数学の土台である。なぜなら、いったん真であることが確立されてしまえば、その上に安心して他の定理を築くことができるからだ。

 

第Ⅲ章

「フェルマーの最終定理には、まるで小説のような歴史があるのです」(ワイルズ)

 

直感的には、無限にあるものからその大部分を取り去れば、残りは有限になりそうなものである。ところが残念なことに、数学における真理の裁定者は、直感ではなく論理なのだ。

 

フェルマーの最終定理も、必要なテクニックはすべて手の届くところにそろっているのかもしれない。欠けているのは、”工夫”だけなのかも……。(ワイルズ)

 

第Ⅳ章

我々は知らねばならない。我々は知るであろう。(ダーフィト・ヒルベルト)

 

人々が信仰を求めるように、私は確実性を求めていた。そして確実性は、他のどこにもまして数学においてこそ見出せる可能性が高いだろうと考えていた。(バートランド・ラッセル)

 

「神は存在する。なぜなら数学が無矛盾だから。そして悪魔も存在する。なぜならそれを証明することはできないから」(アンドレ・ヴェイユ)

 

「純粋数学者というのは、手強い問題が、そう、未解決の問題が大好きなのです」(ワイルズ)

 

第Ⅴ章

「良い間違いを犯すのは非常に難しい」(志村五郎)

 

「私は、良さ(goodness)の哲学というものをもっています。それは、数学はその内に良さをそなえていなければならないということです」(志村)

 

第Ⅵ章

「私がこれに取り組んで小さな結果をいくつか証明してゆけば、たとえ全体の証明にはいたらなくとも、数学にとってそれなりの意味はあるでしょう」(ワイルズ)

 

「新しいアイディアにたどりつくためには、長時間とてつもない集中力で問題に向かわなければならない。その問題以外のことを考えてはいけない。ただそれだけを考えるのです」

「それから集中を解く。すると、ふっとリラックスした瞬間が訪れます。そのとき潜在意識が働いて、新しい洞察が得られるのです」(ワイルズ)

 

「解けないかもしれない問題に、なぜそれほど時間をかけることができたのかと思われるかもしれませんね」
「その答えは、私はこの問題を考えているのが嬉しくてしかたがなかったから、これに夢中だったからです」(ワイルズ)

 

「証明を完成させるのに必要な方法は、あと百年も発明されないかもしれないのです。たとえ正しい道を歩いていたとしても、生まれてくるのが早過ぎたということもありえます」(ワイルズ)

 

第Ⅶ章

「私は質問をしなさすぎるという過ちを犯した。そこからこの誤りがこぼれ落ちたのです」(ニック・カッツ)

 

「私は一人きりで追い求めていたものを失ってしまった。私が叶えようとしていた私だけの夢は、みんなのものになってしまったのです」(ワイルズ)

 

フェルマーの最終定理を証明したと言える人間は、誰よりも長い時間を研究に費やした人間ではなく、最終的に完全な証明を提示した人間なのだ。

 

「言葉にしようのない、美しい瞬間でした。とてもシンプルで、とてもエレガントで……」
「あれは私の研究人生で最も重要な瞬間です。あれほどのことはもう二度となしえないでしょう」(ワイルズ)

 

第Ⅷ章

「完全な人間がめったにいないように、完全な数もまたきわめて稀である」(ルネ・デカルト)

 

「私の傲慢が神の怒りを買ったのだ。私の証明もまた不完全だった」(ヘルマン・ミンコフスキー)

 

「フェルマーの最終定理ほどの問題には、もう出会えないでしょう。これは子供のころに抱いた情熱なのです。代わりになるものなどありません」(ワイルズ)

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

 
 
 
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フェルマーの最終定理

 

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