「花ざかりの森(三島由紀夫)」の名言・台詞をまとめていきます。
花ざかりの森
かの女は森の花ざかりに死んで行った。
かの女は余所にもっと青い森のある事を知っていた。
(シャルル・クロス散人、本文前)
序の巻
この土地へきてからというもの、わたしの気持には隠遁ともなづけたいような、そんな、ふしぎに老いづいた心がほのみえてきた。
(本作の書き出し)
いくたびもわたしは、追憶などはつまらぬものだとおもいかえしていた。
追憶はありし日の生活のぬけがらにすぎぬのではないか、よしそれが未来への果実のやくめをする場合があったにせよ、それはもう現在をうしなったおとろえた人のためのものだけではないか、なぞと。
追憶は「現在」のもっとも清純な証なのだ。
その一
ほんとうはこれからがわたしにいちばんこわいのだ。しかしそれをいうのがわたしははずかしくて、哀訴ともなんともつかぬようなおもいをこめた目つきを投げるのがつねだった。
蜜蜂はけっして巣へもどるみちをあやまたない。母はしばしば、傍目にはおろかしくさえおもわれるほど、それを間違えた。だからかの女には真の意味での追憶がなかった。
かの女の想いがむかしにさかのぼるためにはあまりにおおくの言いわけが入用だった。
かの女はじぶんのなかにあふれてくる、真の矜持の発露をしらなかった。もはや貴族の瞳を母はすてたのである。それを借りもののブウルジョアの眼鏡でわずかにまさぐった。
が、この眼鏡はあくまでも借りものだ。母はその発露に、「虚栄心」という三字をしかよまなかった。
暴露主義や独断が、いつから「正当な」位置をもちはじめたのであろう。
真の矜持はたけだけしくない。それは若笹のように小心だ。
その二
わたしはわたしの憧れの在処を知っている。憧れはちょうど川のようなものだ。川のどの部分が川なのではない。なぜなら川はながれるから。
きのう川であったものはきょう川ではない、だが川は永遠に在る。
いわば花ひらいた憧れは、あのいと聖い幻にむかってぶつけられたのである。
もしぶつけられなかったのなら、あの婦人は永遠にあらわれることなく、したがって永遠にかききえることはなかっただろう。
その三(上)
「海はただ海だけのことだ、そうではないか」
そこにはさだかな予感があるけれども予感が現在におよぼす意味はない。それはうつくしく孤立した現在である。絶縁された世にもきよらかなひとときである。
「往きの道すがら、ただならぬまでに男に感じた畏怖と信頼は、いまにしてみれば前もって男そのものにわだつみを念うていたのかもしれぬ」
「男のけしき男のしぐさの一つびとつに、海のすがたを賭ていたのかもしれぬ」
その三(下)
こうして徐々に、かの女はおのがあこがれをつよめることによって、かの女みずからをつよめていった。きらいな夏がこのほどはうつたえに待たれた。
なぜといって、海や熱帯へのあこがれは、主に夏の朝、または夕映えのまえの果実のように芳醇な時刻にあらわれたからである。
我を没し去るとき、そこには又、あの妖しくもたけだけしいいのちが、却ってはげしくわきでてくるのである。
じぶんが夫にみちたりたものをかんじられぬのは、たとえば「夏」のようなじぶんのあこがれの対象が夫のなかに存在せぬからだとはすこしもきづかづに。
ながい喪の季節、そこでは百合さえも黒百合だけがさくような季節はゆるやかにすぎていった。
夫人にはあいてのなかにじぶんのあこがれの種子があることが、いちばんのたのみでもあり、いちばん愛しがいのあるゆえんでもあった。
こんな年月のあいだ、夫人のくるおしいあこがれはついにみたされることなく、あこがれとはたいへんはなれた処でおわったけれども、しかしまったくの破綻と失意のうちに、その生活がとばりをおろしたとはおもわれない。
なぜといって夫人自ら、都へかえることをかたくなにこばんだから。
「いいえとんでもない。どこへ行ってしまいましたやら。あんなものずきなたのしい気分。……わたしくのどこかにでも、そんなものがのこっているようにおみえでしょうか」
老婦人は毅然としていた。白髪がこころもちたゆとうている。おだやかな銀いろの縁をかがって。じっとだまってたったまま、……ああ涙ぐんでいるのか。祈っているのか。それすらわからない。
「死」にとなりあわせのようにまろうどは感じたかもしれない。生がきわまって独楽の澄むような静謐、いわば死に似た静謐ととなりあわせに。
最後まで読んで頂きありがとうございました。