「嫌われる勇気(岸見一郎、古賀史健)」より名言をまとめていきます。
嫌われる勇気
プロローグ
世界は信じがたいほどにシンプルなところですし、人生もまた同じです。
それは「世界」が複雑なのではなく、ひとえに「あなた」が世界を複雑なものとしているのです。
人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます。
問題は世界がどうであるかではなく、あなたがどうであるか、なのです。
第一夜
アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます。
われわれは原因論の住人であり続けるかぎり、一歩も前に進めません。
人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものであり、自分がどう生きるかを選ぶのは自分なのです。
怒りとは出し入れ可能な「道具」なのです。
変わることの第一歩は、知ることにあります。
自分が「このわたし」であることを受け入れています。
大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである。
あなたが変われないでいるのは、自らに対して「変わらない」という決心を下しているからなのです。
人は、いろいろと不満はあったとしても、「このままのわたし」でいることのほうが楽であり、安心なのです。
あなたには、ただ”勇気”が足りない。いうなれば「幸せになる勇気」が足りていないのです。
「もしも何々だったら」と可能性のなかに生きているうちは、変わることなどできません。
シンプルな課題──やるべきこと──を前にしながら「やれない理由」をあれこれとひねり出し続けるのは、苦しい生き方だと思いませんか?
これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについてなんの影響もない。
第二夜
人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである。
本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう。
劣等感を長く持ち続けることに我慢できる人は誰もいない。
もしも自慢する人がいるとすれば、それは劣等感を感じているからにすぎない。
不幸であることによって「特別」であろうとし、不幸であるという一点において、人の上に立とうとします。
わたしたちの文化のなかで、誰がいちばん強いか自問すれば、赤ん坊であるというのが論理的な答えだろう。赤ん坊は支配するが、支配されることはない。
自らの不幸を「特別」であるための武器として使っているかぎり、その人は永遠に不幸を必要とすることになります。
健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく「理想の自分」との比較から生まれるものです。
すべての人間は「同じではないけれど対等」です。
対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができません。
怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。
人は対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。
友達が多いほどいいと思っている人は大勢いますが、はたしてそうでしょうか。友達や知り合いの数には、なんの価値もありません。
アドラー心理学とは、他者を変えるための心理学ではなく、自分が変わるための心理学です。
アドラーは、さまざまな口実を設けて人生のタスクを回避しようとする事態を指して「人生の嘘」と呼びました。
第三夜
アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定します。
われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。
他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。
他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけません。それが当たり前なのです。
あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと──あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること──によって引き起こされます。
本人の意向を無視して「変わること」を強要したところで、あとで強烈な反動がやってくるだけです。
自分を変えることができるのは、自分しかいません。
他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。
差し伸べれば手が届く、けれど相手の領域には踏み込まない。そんな適度な距離を保つことが大切なのです。
困難に直面することを教えられなかった子どもたちは、あらゆる困難を避けようとするだろう。
自由とは、他者から嫌われることである。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。
わたしが変わったところで、変わるのは「わたし」だけです。
まずは自分なのです。
第四夜
あなたは他者によく思われたいからこそ、他者の視線を気にしている。それは他者への関心ではなく、自己への執着に他なりません。
「この人はわたしになにを与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」を考えなければいけない。
もしも学校に居場所がないのなら、学校の「外部」に別の居場所を見つければいい。転校するのもいいし、退学したってかまわない。退学届一枚で縁が切れる共同体など、しょせんその程度のつながりでしかありません。
関係が壊れることだけを怖れて生きるのは、他者のために生きる、不自由な生き方です。
ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれています。
子どもに「勉強しなさい」と命令する親などは、まさに典型です。本人としては善意による働きかけのつもりかもしれませんが、結局は土足で踏み込んで、自分の意図する方向に操作しようとしているのですから。
人は他者からほめられるほど、「自分には能力がない」という信念を形成していく。
いちばん大切なのは、他者を「評価」しない、ということです。
人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知ります。
人は、自分に価値があると思えたときにだけ、勇気を持てる。
誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。
もしあなたが誰かひとりとでも縦の関係を築いているとしたら、あなたは自分でも気づかないうちに、あらゆる対人関係を「縦」でとらえているのです。
目上とはなんですか? なにが生意気な意見なのですか?
第五夜
「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めるのです。
あなたはただ「わたしがどうするか」だけを考えればいいのです。
「相手が裏切らないのなら、わたしも与えましょう」というのは、担保や条件に基づく信用の関係でしかありません。
信頼することを怖れていたら、結局は誰とも深い関係を築くことができないのです。
人間を理解するのは容易ではない。個人心理学は、おそらくすべての心理学のなかで、学び実践することが、もっとも困難である。
どうでもいいはずのごく一部にだけ焦点を当てて、そこから世界全体を評価しようとしている。
人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないことです。
幸福とは、貢献感である。
普通であることとは、無能なのではありません。わざわざ自らの優越性を誇示する必要などないのです。
人生とは、連続する刹那なのです。
われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない。
計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能なのです。
人生を先延ばしにしているかぎり、われわれはどこにもいけませんし、味気ないモノクロームの日々が続くだけでしょう。
人生はつねに完結しているのです。
人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです。
一般的な人生の意味はない。
あなたがどんな刹那を送っていようと、たとえあなたを嫌う人がいようと、「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。