「菜根譚」の名言まとめ

「菜根譚(守屋洋)」の名言をまとめていきます。
書き下し文は太文字、現代語訳は細字にしています。

 

菜根譚 前集

君子は、その練達ならんよりも、朴魯なるに若かず。 その曲謹ならんよりも、 疎狂なるに若かず。

立派な人物は、なまじ世故にたけるよりも、愚直でありたい。バカ丁寧であるよりも、むしろ率直でありたい。

 

智械機巧は、知らざる者を高しとなし、これを知りて而も用いざる者を尤も高しとなす。

権謀術数を知らないのは高尚な人物である。だが、それを知りながら使わない人物こそもっとも高尚だと言える。

 

耳中、常に耳に逆らうの言を聞き、心中、常に心に払るの事ありて、 纔にこれ徳を進め行いを修むるの砥石なり。

たえず不愉快な忠告を耳にし、思いどおりにならない出来事をかかえていてこそ、自分を向上させることができる。

 

君子は、時には喫緊の心思あるを要し、忙処には悠の趣味あるを要す。

(君子は)平穏無事なときには万一の場合に備えることを忘れず、いったん有事のさいには悠々たる態度で対処するように心がけなければならない。

 

一七

世に処するに一歩譲るを高しとなす。歩を退くは即ち歩を進むるの張本なり。

この世のなかを生きていくには、人に一歩譲る心がけを忘れてはならない。一歩退くことは一歩進むための前提となるのだ。

 

二三

人を教うるに善を以ってするは、高きに過ぐるなかれ、当にそれをして従うべからしむべし。

人を教導するときには、あまり多くを期待してはならない。相手が実行できる範囲内に止めておくべきだ。

 

二六

人常に事後の悔悟を以って、事に臨むの癡迷を破らば、則ち性定まりて動くこと正しからざるはなし。

いつも事後の悔恨に思い致して、事前の迷いに対処すれば、それなりに腹もすわって、誤りのない行動をとることができよう。

 

三一

聡明の人は、宜しく斂蔵すべきに反って炫耀す。これ聡明にしてその病を愚ボウにするなり。

聡明な人物は、才能を包み隠しているべきなのに、かえってそれをひけらかす。これでは、聡明とはいいながら、愚かな人間と少しも変わりがない。

 

三二

静を守りて而る後に動を好むの労に過ぐるを知る。 黙を養いて而る後に言多きの躁なるを知る。

じっと静かにしていれば、動き回っている人間の空しさがわかってくる。沈黙を守っていれば、多弁な人物の騒がしさが見えてくる。

 

三六

小人を待つは、厳に難からずして、悪まざるに難し。君子を待つは、恭に難からずして、礼あるに難し。

小人に対しては、厳しい態度で臨むことはやさしい。むずかしいのは、憎しみの感情を持たないことだ。
君子に対しては、へりくだった態度をとることはやさしい。むずかしいのは、過不足のない礼をもって接することだ。

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四〇

欲路上の事は、その便を楽しみて姑くも染指を為すなかれ。一たび染指せば、便ち深く万仭に入らん。

労せずして欲望がかなえられるからといって、うっかり手を出してはならない。いちど手を出せば、どんどん深みにはまりこむ。

 

四九

福は事少なきより福なるはなく、禍は心多きより禍なるはなし。

何が幸せかといって、平穏無事より幸せなことはなく、何が不幸かといって、欲求過多より不幸なことはない。

 

五一

我、人に功あらば念うべからず。而して過ちは則ち念わざるべからず。人、我に恩あらば忘るべからず。而して怨みは則ち忘れざるべからず。

人に施した恩恵は忘れてしまったほうがよい。だが、人にかけた迷惑は忘れてはならない。人から受けた恩義は忘れてはならない。だが、人から受けた怨みは忘れてしまったほうがよい。

 

七六

地の穢れたるは多く物を生じ、水の清きは常に魚なし。故に君子は、 当に垢を含み汚を納るるの量を存すべし。潔を好み独り行うの操を持すべからず。

汚い土には作物が育ち、澄みきった水には魚もすまない。汚いものもあえて受け入れる度量を持ってこそ君子と言える。独りよがりの潔癖は避けるべきだ。

 

八〇

既往の失を悔ゆるは、将来の非を防ぐに如かず。

過去の失敗にくよくよするよりも、将来の失敗に備えるがよい。

 

八五

暗中に欺隠せざれば、明処に受用あり。

人目につかないところでも、良心をあざむいてはならない。その効用は、人前に出たときに現れてくる。

 

八九

人に施してはその報いを責むるなかれ。その報いを責むれば、併せて施す所の心も倶に非なり。

人に恩を施すときには、見返りを期待してはならない。仮にも見返りを期待するようなことがあれば、最初の動機まで不純になってしまう。

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九九

逆境の中に居れば、周身、皆鍼砭薬石、節を砥ぎ行いを礪きて、而も覚らず。順境の内に処れば、満前尽く兵刃戈矛、膏を銷し骨を靡して、而も知らず。

逆境にあるときは、身の回りのものすべてが良薬となり、節操も行動も知らぬまに磨かれていく。
順境にあるときは、目の前のものすべてが凶器となり、体中骨抜きにされても、まだ気づかない。

 

一〇三

幻迹を以って言えば、功名富貴を論ずるなく、即ち肢体もまた委形に属す。

現実は仮りの世界である。功名富貴はもとより、この肉体さえも幻にすぎない。

 

一〇五

人の小過を責めず、人の陰私を発かず、人の旧悪を念わず。三者は以って徳を養うべく、また以って害に遠ざかるべし。

小さな過失はとがめない、隠しごとはあばかない、古傷は忘れてやる。他人に対してこの三つのことを心がければ、自分の人格を高めるばかりでなく、人の恨みを買うこともない。

 

一一二

善なくして人の誉を致すは、悪なくして人の毀を致すに若かず。

善行もないのに、評判だけを得ようとしてはならない。それくらいなら、いわれのない非難にさらされるほうがまだましだ。

 

一一四

小処に滲漏せず、暗中に欺隠せず、末路に怠荒せず。纔にこれ個の真正の英雄なり。

細事の処理にも、手を抜かない。人目のないところでも、悪事に手を染めない。失意のときでも、投げやりにならない。こうあってこそ、初めて立派な人物と言える。

 

一一七

衰颯の景象は、就ち盛満の中に在り。発生の機緘は、即ち零落の内に在り。

下り坂に向かう兆しは最盛期に現れ、新しいものの胎動は衰退の極に生じる。

 

一三〇

群疑に因りて独見を阻むなかれ。己の意に任せて人の言を廃するなかれ。

人々に支持されないからといって、自分の意見を変えてはならない。自分の意見に固執するあまり、他人の意見を無視してはならない。

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一四〇

奸を鋤き倖を杜ぐは、他に一条の去路を放つを要す。若しこれをして一も容るる所なからしめば、譬え鼠穴を塞ぐものの如し。
一切の去路都て塞ぎ尽くせば、則ち一切の好物倶に咬み破られん。

有害な人間を排除するにしても、逃げ道だけは残しておかなければならない。逃げ場まで奪ってしまうのは、ネズミの穴をふさいで退路を絶つようなものだ。
それでは、大切なものまでかじりつくされてしまう。

 

一五五

事を謝するは、当に正盛の時に謝すべし。身を居くは、宜しく独後の地に居くべし。

全盛を極めているときこそ、隠退の潮時だ。人の行きたがらない所にこそ、身を置くべきだ。

 

一七六

事を議する者は、身、事の外に在りて、宜しく利害の情を悉くすべし。事に任ずる者は、身、事の中に居りて、当に利害の慮りを忘るべし。

議論するときには、第三者の立場に身をおいて、十分に利害得失を検討してかからなければならない。
実行するときには、当事者として、個人の利害得失を度外視してかからなければならない。

 

一八七

富貴の地に処しては、貧賤の痛癢を知らんことを要す。少壮の時に当たりては、須らく衰老の辛酸を念うべし。

地位と財産に恵まれたときには、地位も財産もない苦しさを理解してやらなければならない。若くて血気盛んなときには、年老いて弱りはてたときの辛さを思いやらなければならない。

 

二一九

中才の人は、一番の思慮知識多ければ、便ち一番の億度猜疑多し。事々与に手を下し難し。

中途半端に知識をつめこんだ人間は、なまじっかな「知」に振り回されて、憶測や疑惑の虜になりがちだ。こういう相手とは協力して事に当たることはできない。

菜根譚 後集

一九

延促は一念に由り、寛窄はこれを寸心に係く。故に機閒なる者は、一日も千古より遥かに、意広き者は、斗室も寛くして両間の若し。

時間は、気持の持ち方しだいで長くもなり短くもなり、場所は、心の持ち方ひとつで広くもなり狭くもなる。
のんびりした気持の持主には一日が千年の長さに感じられ、ゆったりした心の持主には狭苦しい部屋も天地の広さに感じられる。

 

二一

都て眼前に来たる事は、足るを知る者には仙境、足るを知らざる者には凡境なり。

眼の前にあるすべてのことは、満足することを知っている者には理想の世界である。だが、満足することを知らない者にとっては世俗の世界にすぎない。

 

二七

隠逸の林中には栄辱なく、道義の路上には炎涼なし。

世俗を逃れて山林に住む者には、栄誉も恥辱も関係ない。道義を守って突き進む者には、人の思惑など気にならない。

 

三一

事を練るは、何ぞ事を省くの閒なるに如かん。

あれもこれもと手がけるよりも、できるだけ用事を減らすほうが、ずっと心に余裕を生む。

 

六二

成の必ず敗るるを知れば、則ち成を求めるの心は、必ずしも太だ堅からず。

成功があれば必ず失敗がある。このことに気づけば、成功を目指してしゃにむに突っ走ろうとする気持もにぶってくる。

 

九六

理寂なれば則ち事も寂なり。事を遣って理を執るは、影を去って形を留むるに似たり。

本体が空であれば、現象も空である。本体はそのままにして、現象だけ忘れようとするのは、形はそのままにして影だけ消そうとするのと変わりがない。

 

一二一

耳根は颷谷の響きを投ずるに似て、過ぎて留めざれば、則ち是非倶に謝す。心境は月池の色を浸すが如く、空にして着せざれば、則ち物我両つながら忘る。

耳に聞こえる雑音は、谷にこだまするつむじ風のようなもの。過ぎ去ってしまえば、もはや、是も非も残らない。
心に浮かぶ雑念は、池に映る月影のようなもの。心を空にしてしまえば、もはや、物も我も影を留めない。

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

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