「羅生門・鼻(芥川龍之介)」の名言まとめました

「羅生門・鼻(芥川龍之介)」の名言をまとめていきます。

羅生門・鼻

羅生門

云わば、どうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。

今も昔も人は変わらないことを思い知らされる。
無理なことが分かっているのに考えてしまう、どうにもならないのに考えてしまう。
しかしそこにこそ人の面白さがある。

「じゃて、その仕方がない事を、よく知っていた女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろう」
「では、己が引剥しようと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死をする体なのだ」

有名な問答になります。人は都合の良いところだけを取り上げて行動する。
しかしそれは自分に当てはめても大丈夫とは考えていないため、このような結果になる。
またその引剥をする者も、次に同じ目に合うという繰り返し。

これは専念に当来の浄土を渇仰すべき僧侶の身で、鼻の心配をするのが悪いと思ったからばかりではない。
それより寧、自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌だったからである。

人は意外と悪い環境にも適合できる。
しかし人に悪いと思われることを、受け入れるのは困難である。
例えば、友達がいなくて一人で平気でも、「友達がいなくて一人でいつもいる」と思われるのは嫌なもの。
またそれを否定しても、次は「強がっている」になってしまう。
人の目線や言葉のほとんどは大したことではない。
しかし人に影響を与えてしまうという、嫌な現実をどうにかできないだろうか?

内供は人を見ずに、唯、鼻を見た。
しかし鍵鼻はあっても、内供のような鼻は一つも見当たらない。
その見当たらない事が度重なるに従って、内供の心は次第に又不快になった。

このように人は何の解決にもならないのに、自分と同じ境遇の人を探してしまう。
たとえ見つかっても、その人が気にしていても気にしていなくても、自分には何の影響も与えない。
ましてその人にとって何の問題もなければ、自分が返って嫌になる。
これを解決するには欠点を補う方法では難しい。
別の長所を伸ばすしか方法がないことは分かっているのだが。

人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。
勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。
ところがその人がその不幸を、どうにかして切り抜ける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。

これには多くの人が共感するだろう。
そしてこれは自分と差のない人に対して感じること。
例えば、大金持ちが宝くじを当てても気にならない。
また貧乏人が事業で成功しても感心するだけ。
しかし自分の同期が突然出世して上司になったら、平常心ではいられない。
本当に人の心は面倒くさい。

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芋粥

しかし、五位はこれらの揶揄に対して、全然無感覚であった。
少くも、わき眼には、無感覚であるらしく思われた。
彼は何を云われても、顔の色さえ変えた事がない。

見栄えがみすぼらしい五位に対して、周りが揶揄している。
それに対する五位の見た目が表現されている。
この場合、対応してしまうと返って揶揄が激しくなる、そして対応しなくても揶揄は続く。
また反撃すると分別が無いように言われる。
このように無感覚になるのは、以前に感情を表に出した時、より酷いことになった記憶があるからだろう。
なぜ世間は言葉の被害者に対して、優しくなれないのだろうか。

人間は、時として、充されるか、充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまう。
その愚を哂う者は、畢竟(ひっきょう)、人生に対する路傍の人に過ぎない。

人は出来そうだから望むのか、それとも出来なさそうだから夢想するのか、どちらの欲望の方が強いのだろうか?
誰もが両方を欲し、ほとんど両方届かない。
しかし欲望こそが進歩と考えるなら、一生を捧げること自体が幸せなのかも?

終始、いじめられている犬は、たまに肉を貰っても容易によりつかない。

犬で表現しているが、上から目線の限りなく嫌悪感を感じる言葉です。

どうもこう容易に「芋粥に飽かむ」事が、事実となって現れては、折角今まで、何年となく、辛抱して待っていたのが、如何にも、無駄な骨折のように、見えてしまう。

芋粥をおなか一杯食べたいという欲望が現実になりそうな時、五位が感じたこと。
この気持ちは非常に分かる。
例えば洋服を購入する時、買うまでのいろいろな気持ちが楽しくて、購入した後には結局着ないことがある。
旅行に行くまでのいろいろな想像が楽しくて、旅行中は疲れるだけと感じることもある。
種類にもよるが、欲望は達成できない方が幸せかもしれない。

袈裟と盛遠

ああ、私は生き甲斐がなかったばかりではない。死に甲斐さえもなかったのだ。

ある女性の嘆き。
細かい説明は長くなるので省きますが、とても悲しい言葉ですね。

好色

「いや、もうその位で沢山だよ。君のように理屈をつければ、案山子も鎧武者になってしまう」
「君のように嫉妬深いと、鎧武者も案山子と思ってしまうぜ」

色男の平中を見ている、二人の男の会話。
細かい説明は省くが、人は見方によって全然違う考えを持つ。
あらゆる物事には表と裏があり、どちらを伝えるかによって結果が変わる。

俊寛

しかし会えぬものならば、泣くな。有王。いや、泣きたければ泣いても好い。
しかしこの娑婆(しゃば)世界には、一々泣いては泣き尽せぬ程、悲しい事が沢山あるぞ。

俊寛が会えない娘の話をした時、泣いている有王に対して話したこと。
泣くことを「嘆く」と考えると、本当にうまくいかず嘆くことばかり。
それを一々嘆いていてはキリがない。

一条二条の大路の辻に、盲人が一人さまようているのは、世に憐れに見えるかも知れぬ。
が、広い洛中洛外、無量無数の盲人どもに、充ち満ちた所を眺めたら、有王。お前はどうすると思う?
おれならばまっ先にふき出してしまうぞ。

島流しに会っている、俊寛の今の心境が語られている。
人の憐れにもいろいろあり、自分の環境もおかしいものと一歩すすんだ所にたどり着く。
言うまでもないが、最初の盲人と後の盲人は意味が違うと考えている。

お前が都へ帰ったら、姫にも嘆きをするよりは、笑う事を学べと云ってくれい。

不幸な境遇に落ちている娘に対しての伝言になります。
笑うから楽しいのか、それとも楽しいから笑うのか、どちらですかね?

天下の役人は役人がいぬと、天下も亡ぶように思っているが、それは役人のうぬ惚れだけじゃ。

多くの場合、組織や運営している個人がいなくても世の中は周る。
なぜなら無ければ新たに出来るから。
ただし一人の存在で、世の中が大きく変わるのも事実。
このバランスを常に意識して、調整することが必要と考えている。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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