「幸せになる勇気」の名言まとめました

「幸せになる勇気(岸見一郎、古賀史健)」より名言をまとめていきます。

アドラー心理学の解説書であり、「嫌われる勇気」の続編。
再び、鉄人と青年の議論が始まる。
アドラー心理学とは、実社会に合わない机上の空論なのだろうか?

アドラー心理学

もしもアドラーの思想に触れ、即座に感激し、「生きることが楽になった」と言っている人がいれば、その人はアドラーを大きく誤解しています。

ずいぶんと手厳しい意見から始まっている。
単純に言えば、「多くの人は知っている、もしくは理解しているだけ」
本書にも「アドラーがわれわれに要求することの内実を理解すれば、その厳しさから身を震わすことになる」と書かれている。
アドラー心理学とは対人関係を重視した実践が全て。
聞いて理解した程度では役に立たないのだろう。

教育について

教育とは「介入」ではなく、自立に向けた「援助」なのです。

相談者が学校の先生のため、このようなことが書かれている。
基本的に学校は知識を教える所です。
しかし多くの子どもから、次の言葉をよく聞きます。
「社会に出てから使わない知識をなぜ勉強するの?」
確かに多くの人にとって数学の微分積分、古典の知識などは使わない。
そのため多くの大人が答えることが出来ず、怒りをもって意見を封じている。
私はいつも次のように答えている。
「子どもの時の勉強は知識を覚えるための練習であって、内容自体に意味はありません」
ほとんどの人が何らかの知識を、大人になるにつれて覚える必要がある。
中学までは、その知識を覚えるための練習の援助こそが教育だと、私は考えている。
しかしテスト形式における、現在の教育システム自体を批判するつもりはない。
なぜなら多くの人に可能性を与えてる公平なシステムだから。

対人関係の基本

まずは親が子どもを尊敬し、上司が部下を尊敬する。
役割として「教える側」に立っている人間が、「教えられる側」に立つ人間のことを敬う。
尊敬なきところに良好な対人関係は生まれず、良好な関係なくして言葉を届けることはできません。

これを読むと「尊敬」という表現に違和感を感じないですか?
本来の尊敬とは「尊び敬うこと」であり、親や偉人などに対して使う言葉です。
それなのに、ここでは下位(少し違うかもしませんが)の立場の人に対して尊敬しなさいと書かれている。
それはアドラー心理学における「尊敬」の意味が少し異なるからです。

尊敬

尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。
さらに、尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである。

アドラーと同時代の社会心理学者エーリッヒ・フロムの言葉になります。
尊敬という言葉を使っているが、「相手を認めること、気づかうこと」という意味になる。
これなら「親が子へ」、または「上司が部下へ」でも理解できる。

尊敬と仕事

互いのあいだに尊敬が存在しないなら、そこには人間としての「関係」も存在しないでしょう。
そのような組織は、たんなるネジやバネ、歯車のように「機能」としての人間が集まっているに過ぎない。
機械のような「作業」はこなせても、人間としての「仕事」は、誰にもできないのです。

現在のシステムに関して、批判とも取れる内容です。
たしかに多くの会社では能力評価はあれど、人としての評価はない。
会社によれば人間性を考慮していると言いそうだが、「結果を出してる人」が評価される。
ただ工場などのある一定の方法を採用する場合、個人のバラツキを許すわけにはいかない。
理想としては理解できるが、現実として受け止めることには少し抵抗を感じる。

関心事

会社での対人関係でも、恋人との関係でも、あるいは国際関係においても、われわれはもっと「他者の関心事」に関心を寄せる必要があります。

多くの人にとって「自分の関心事に相手が興味を持つか?」が大切で、相手の関心事には興味がない。
なぜなら、それは自分にとって大切ではないから。
反論される方もいると思いますが、例えば記念日などに花を送り、相手に喜んでもらうのは、自分に優しくしてもらうための方法とも言える。
逆に相手が何をしても自分の言うこと聞いてくれる場合、相手の関心を引こうと努力するでしょうか?
「釣った魚に餌はやらない」とは、よく言ったものです。

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相手について

まずは、「もしもわたしがこの人と同じ種類の心と人生を持っていたら?」と考える。

相手の考え方を理解する方法。
相手のことを考える場合でも、自分の考え方を基準に相手のことを想像してしまう。
しかし当然のことながら、相手と自分は考え方も環境も異なる。
「相手のことを考える」ではなく、「相手自体になってみる」ということを一度してみては?

臆病と勇気

臆病は伝染する。そして勇気も伝染する。

あらゆることが伝染する。プラスにおける伝染の発生源になりたい。

過去について

人間は誰もが「わたし」という物語の編纂者であり、その過去は「いまのわたし」の正統性を証明すべく、自由自在に書き換えられていくのです。

過去の記憶についてだが、少し分かりにくい。
例えば、過去に大きな失敗をしていたとする。
しかし現在、成功してるなら「あの時の失敗があったから今がある」と考えることも出来る。
逆に現在、上手くいってなければ「あの時の失敗のせいで今がある」と考えてしまう。
失敗は同じなのに、現在の状況によって過去が書き換えられている。
言い方を変えれば、過去は絶対のものではなく相対的なもの。
全ては現在の自分の考え方次第となる。

カウンセリング

カウンセリングにやってくる方々は、ほとんどがこのいずれかの話に終始します。
自身に降りかかった不幸を涙ながらに訴える。
あるいは、自分を責める他者、また自分を取り巻く社会への憎悪を語る。

読んだままです。
カウンセリングの患者さんだけに限らないですけどね。

ライフスタイル

彼らは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」のだし、「罰を与える人がいなければ、不適切な行動もとる」というライフスタイル(世界観)を身につけていくのです。

ここでいう彼らとは、学校における生徒であり、家庭での子供のこと。
アドラー心理学では「ほめること」「怒ること」「叱ること」の全てを否定している。
なぜなら、ここに書かれているように、ほめられなければ行動しない。
怒られなければ何をしてもいい、という感情が育ち、何も解決しないと考えているから。
この主体性のない考え方を否定している。

暴力について

暴力に訴えてしまえば、時間も労力もかけないまま、自分の要求を押し通すことができる。
もっと直接的に言えば、相手を屈服させることができる。
暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段なのです。

体罰について全否定している。
確かに会話によって、全てを解決することは大変な手間を要する。
しかし暴力を使える立場にいる場合、簡単に相手を従わせることができる。
たとえ相手が本心から認めていなくても。
自分の言うことを聞かせるために使う暴力は、無能を証明している行動です。

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叱ることの正当性

(怒っているのではなく、叱っていると言う人に対して)
そう弁明する大人は大勢います。
しかし、暴力的な「力」の行使によって相手を押さえつけようとしている事実には、なんら変わりがありません。
むしろ「わたしは善いことをしているのだ」との意識があるぶん、悪質とさえ言えます。

叱っている人に対して否定している。
少し厳しすぎるようにも感じるが、叱ることが大切なことを聞いたことがある。
それは一切の私心を入れず、ただ相手のためだけに叱ること。
書かれているように「わたしは善いことをしている」という自分目線が入ってはいけない。
相手に好かれようなどとは考えない。もちろん将来も含めて、感謝など期待しない。
それだけの覚悟がある人だけが、人を叱ることができる。
叱るという行為は、見返りのない援助でなければいけない。

教育の目的

教育する立場にある人間、そして組織の運営を任されたリーダーは、常に「自立」という目標を掲げておかねばならない。

教育の目的について。
ただ、ここでいう自立とは経済的なものではなく、能力的なものでもありません。
それとは異なる精神的な自立を指している。自分で考え行動し、責任を持つこと。
学力アップや技能のアップなど、あくまで通過点である。

競争

競争あるところ、駆け引きが生まれ、不正が生まれます。
誰かに勝つ必要などない。

競争における未来を示している。
競争社会やライバルというのが努力を生み、能力を高めるのは事実だと考える。
実際、競争無き社会に発展は無かったかもしれない。
しかしその結果として格差が生まれ、戦争をし、環境を壊している。
ただ、あまりにもきれいごとだと感じるのも事実。
自分がこれ以上、勝つ必要のない立場になってたら考えてもいい。

劣等感

われわれ人間は子ども時代、ひとりの例外もなく劣等感を抱えて生きている。
これがアドラー心理学の大前提です。

人によっては「劣等感など感じたことはない」という人もいるでしょう。
しかし幼稚園児の時、中学生には体力的にも能力的にも勝てません。
明らかに劣っている状態です。
それなのに劣等感を感じないのは気づいていないだけ。
そのため劣等感を持つことは、むしろ普通となる。

所属感

アドラー心理学では、人間の抱えるもっとも根源的な欲求は、「所属感」だと考えます。

所属感を本書から抜粋すると、「孤立したくない。『ここにいてもいいんだ』と実感したい」になる。
家族や仲間、会社において「自分の居場所を認めてもらう」こと。
やはり「居場所がない」という感覚ほどつらいものはない。

自立について

「わたし」の価値を、他者に決めてもらうこと。それは依存です。
一方、「わたし」の価値を、自らが決定すること。これを「自立」と呼びます。
幸福な生がどちらの先にあるか、答えは明らかでしょう。

100人にほめられても、1人に非難されると自分を否定する人がいる。
逆に100人の人に非難されても、自分を肯定できる人がいる。
世間的には前者の方が評価は高い。
しかし幸福感を持って生きているのは、どちらかは明白。

不幸な救済

不幸を抱えた人間による救済は、自己満足を脱することがなく、誰ひとりとして幸せにしません。

ここで注意したいのは、経済的な不幸、身内などを含めた人間関係などの実質的な不幸ではないこと。
ここでの不幸は「自分を不幸と考えている人」のこと。
そのような人に本質での明るさはなく、また未来も見えていない。
いかなる金銭的な援助も、素晴らしい言葉もすべて上滑りする。

中途半端な正義

なにより危険なのは、なにかが善で、なにかが悪であると、中途半端な「正義」を掲げることです。
正義に酔いしれた人は、自分以外の価値観を認めることができず、果てには「正義の介入」へと踏み出します。

これは多くの方が感覚的に理解できるだろう。
また実際に、どちらかの立場で経験している方も多いでしょう。
自分の正しさを信じる者は相手の価値観を否定し、また残酷になれる。
少し話は大きくなるが、昔の宗教対立などがもっとも明確に反映されている歴史となる。
自分は正しい、しかし相手も正しいとの考えから始めたい。

出会いと別れ

すべての出会いとすべての対人関係において、ただひたすら「最良の別れ」に向けた不断の努力を傾ける。
それだけです。

対人関係の基本となる。
今日が最後の日になったとしても後悔のない努力をする。
いつ別れることになっても、最良の別れが出来るように努力する。
一度しか会えない人、毎日当たり前のように会っている人に対して、不断の努力を行いたい。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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幸せになる勇気――「アドラー」の教えII

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