「幸せになる勇気 自己啓発の源流『アドラー』の教えⅡ(岸見一郎、古賀史健)」より名言をまとめていきます。
幸せになる勇気
序章
もしもアドラーの思想に触れ、即座に感激し、「生きることが楽になった」と言っている人がいれば、その人はアドラーを大きく誤解しています。
幸福とは、その場に留まっていて享受できるものではありません。踏み出した道を歩み続けなければならない。
あなたはまだ、「人生における最大の選択」をしていない。それだけです。
第一部
「あなたは他者の期待を満たすために生きているのではない」。そして「他者もまた、あなたの期待を満たすために生きているのではない」。
教育が目標とするところ、ひと言でいうとそれは「自立」です。
教育とは「介入」ではなく、自立に向けた「援助」なのです。
まずは親が子どもを尊敬し、上司が部下を尊敬する。役割として「教える側」に立っている人間が、「教えられる側」に立つ人間のことを敬う。
尊敬なきところに良好な対人関係は生まれず、良好な関係なくして言葉を届けることはできません。
目の前の他者を、変えようとも操作しようともしない。なにかの条件をつけるのではなく、「ありのままのその人」を認める。これに勝る尊敬はありません。
水辺まで連れていくことはできても、水を呑ませることはできません。
互いのあいだに尊敬が存在しないなら、そこには人間としての「関係」も存在しないでしょう。
機械のような「作業」はこなせても、人間としての「仕事」は、誰にもできないのです。
子どもたちは「あなた」ではなく、「権力」に服従しているだけです。
「あなた」のことを理解しようとは、微塵も思っていません。耳を塞いで目をつぶり、怒りの嵐が過ぎ去るのを待っているだけです。
会社での対人関係でも、恋人との関係でも、あるいは国際関係においても、われわれはもっと「他者の関心事」に関心を寄せる必要があります。
まずは、「もしもわたしがこの人と同じ種類の心と人生を持っていたら?」と考える。
共感とは、他者に寄り添うときの技術であり、態度なのです。
そして技術である限り、あなたにも身につけることができます。
「臆病は伝染する。そして勇気も伝染する」。当然「尊敬」もまた、伝染していくでしょう。
われわれの世界には、ほんとうの意味での「過去」など存在しません。
人間は誰もが「わたし」という物語の編纂者であり、その過去は「いまのわたし」の正統性を証明すべく、自由自在に書き換えられていくのです。
過去が「いま」を決めるのではありません。あなたの「いま」が、過去を決めているのです。
わたしは人間の可能性を信じるからこそ、悲劇に酔うことを否定しているのです。
カウンセリングにやってくる方々は、ほとんどがこのいずれかの話に終始します。
自身に降りかかった不幸を涙ながらに訴える。あるいは、自分を責める他者、また自分を取り巻く社会への憎悪を語る。
第二部
彼ら(生徒)は「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」のだし、「罰を与える人がいなければ、不適切な行動もとる」というライフスタイル(世界観)を身につけていくのです。
消極的な子どもたちは「不従順」によって、権力争いを挑んできます。
「できるかもしれない」と課題に取り組んで失敗するくらいなら、最初から「できるはずがない」とあきらめたほうが楽なのです。
あなたは生徒たちに「原因」ばかりを聞いている。そこをいくら掘り下げても、責任放棄と言い訳の言葉しか出てきません。
暴力に訴えてしまえば、時間も労力もかけないまま、自分の要求を押し通すことができる。もっと直接的に言えば、相手を屈服させることができる。
暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段なのです。
(叱るという行為は)「わたしは善いことをしているのだ」との意識があるぶん、悪質とさえ言えます。
「変えられないもの」に執着するのではなく、眼前の「変えられるもの」を直視するのです。
反省の言葉を強要したところで、なにも生まれない。
親、そして教育者は、どうしても子どもたちに過干渉になり、過保護になる。
その結果、何事についても他者の指示を仰ぐような、「自分ではなにも決められない子ども」を育ててしまう。
教育する立場にある人間、そして組織の運営を任されたリーダーは、常に「自立」という目標を掲げておかねばならない。
教育者は、孤独な存在です。誰からもほめてもらえず、労をねぎらわれることもなく、みんな自立で巣立っていく。感謝すらされることのないままに。
生徒からの感謝を期待するのではなく、「自立」という大きな目標に自分は貢献できたのだ、という貢献感を持つ。貢献感のなかに幸せを見出す。それしかありません。
第三部
ライバルと呼ぶべき盟友の価値は、大いに認めます。しかし、そのライバルと競争する必要はひとつもないし、競争してはいけないのです。
競争あるところ、駆け引きが生まれ、不正が生まれます。誰かに勝つ必要などない。
われわれ人間は子ども時代、ひとりの例外もなく劣等感を抱えて生きている。これがアドラー心理学の大前提です。
アドラー心理学では、人間の抱えるもっとも根源的な欲求は、「所属感」だと考えます。つまり、孤立したくない。「ここにいてもいいんだ」と実感したい。
ほめられることでしか幸せを実感できない人は、人生の最後の瞬間まで「もっとほめられること」を求めます。
その人は「依存」の地位に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生を送ることになるのです。
「わたし」の価値を、他者に決めてもらうこと。それは依存です。一方、「わたし」の価値を、自らが決定すること。これを「自立」と呼びます。
幸福な生がどちらの先にあるか、答えは明らかでしょう。
「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのです。それがほんとうの個性というものです。
自立という言葉を聞いたとき、それを経済的な側面ばかりから考える人がいます。
しかし、たとえ10歳の子どもであっても、自立することはできる。50歳や60歳であっても、自立できていない人もいる。自立とは、精神の問題なのです。
他者を救うことによって、自らが救われようとする。自らを一種の救世主に仕立てることによって、自らの価値を実感しようとする。
不幸を抱えた人間による救済は、自己満足を脱することがなく、誰ひとりとして幸せにしません。
第四部
孤独は「関係」のなかにだけ、存在します。
「われわれは交友において、他者の目で見て、他者の目で聞き、他者の心で感じることを学ぶ」
仕事の関係とは「信用」の関係であり、交友の関係とは「信頼」の関係なのです。
利己心を追求した先に、「他者貢献」があるのです。
人間の価値は、「どんな仕事に従事するか」によって決まるのではない。その仕事に「どのような態度で取り組むか」によって決まるのだと。
危険なのは、なにかが善で、なにかが悪であると、中途半端な「正義」を掲げることです。
正義に酔いしれた人は、自分以外の価値観を認めることができず、果てには「正義の介入」へと踏み出します。
他者のことを「信頼」できるか否かは、他者のことを尊敬できるか否かにかかっています。
他者を信じること。これはなにかを鵜呑みにする、受動的な行為ではありません。ほんとうの信頼とは、どこまでも能動的な働きかけなのです。
われわれは「自分のことを信じてくれる人」の言葉しか信じようとしません。「意見の正しさ」で相手を判断するのではないのです。
自己中心的な人は、「自分のことが好き」だから、自分ばかり見ているのではありません。
ありのままの自分を受け入れることができず、絶え間なき不安にさらされているからこそ、自分にしか関心が向かないのです。
われわれ人間は、わかり合えない存在だからこそ、信じるしかないのです。
われわれにとっては、なんでもない日々が試練であり、「いま、ここ」の日常に、大きな決断を求められているのです。
その試練を避けて通る人に、ほんとうの幸せは獲得できないでしょう。
第五部
他者から愛されることはむずかしい。けれども、「他者を愛すること」は、その何倍もむずかしい課題なのです。
ありもしない理想を持ち出すことによって、生きた人間と関わり合いになることを回避する。それが「出会いがない」と嘆く人の正体だと考えてください。
世界はシンプルであり、人生もまた同じである。しかし、「シンプルであり続けることはむずかしい」。
すべての出会いとすべての対人関係において、ただひたすら「最良の別れ」に向けた不断の努力を傾ける。それだけです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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