「晩年(太宰治)」の名言まとめました

「晩年(太宰治)」の名言をまとめていきます。
本作での説明や解釈は無意味・蛇足と感じましたので、書かない方針にしています。

晩年

その日その日を引きずられて暮しているだけであった。

ほんとうに、言葉は短いほどよい。
それだけで、信じさせることができるならば。

芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である。

ここに男がいる。生れて、死んだ。
一生を、書き損じの原稿を破ることに使った。

安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、
ひしがれたくらしをしているときは、生のよろこびを書きつづる。

どうにか、なる。

列車

誰だってそうであろうが、見送人にとって、この発車前の三分間ぐらい閉口なものはない。
言うべきことは、すっかり言いつくしてあるし、ただむなしく顔を見合わせているばかりなのである。

猿ヶ島

逃げる。
こわくないか。

道化の華

ここを過ぎて悲しみの市(まち)

よそう。おのれをあざけるのはさもしいことである。
それは、ひしがれた自尊心から来るようだ。
現に僕にしても、ひとから言われたくないゆえ、まずまっさきにおのれのからだへ釘をうつ。
これこそ卑怯だ。もっと素直にならなければいけない。ああ、謙譲に。

美しい感情を以て、人は、悪い文学を作る。
つまり僕の、こんなにうっとりしすぎたのも、僕の心がそれだけ悪魔的でないからである。

悪趣味。いまになって僕の心をくるしめているのはこの一言である。

僕はなぜ小説を書くのだろう。困ったことを言いだしたものだ。仕方がない。
思わせぶりみたいでいやではあるが、仮に一言こたえて置こう。
「復讐」

たくさんのことを言い落している。それも当前であろう。
作家にはその作品の価値がわからぬというのが小説道の常識である。

たった四日の思い出の、五年十年の暮しにまさることがある。
たった四日の思い出の、ああ、一生涯にまさることがある。

ああ、作家は、おのれのすがたをむき出しにしてはいけない。
それは作家の敗北である。

猿面冠者

小説は、やはりわがままに書かねばいけないものだ。
試験の答案とは違うのである。

この小説は徹頭徹尾、観念的である。肉体のある人物がひとりとして描かれていない。
すべて、すり硝子越しに見えるゆがんだ影法師である。

風の便りはここで終らぬ。

男は書きかけの原稿用紙に眼を落してしばらく考えてから、題を猿面冠者とした。
それはどうにもならないほどしっくり似合った墓標である、と思ったからであった。

逆行

老人の永い生涯に於いて、嘘ではなかったのは、
生まれたことと、死んだことと、二つであった。

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彼は昔の彼ならず

僕はどうも芸術家というものに心をひかれる欠点を持っているようだ。
ことにもその男が、世の中から正当に言われていない場合には、いっそう胸がときめくのである。

けれど、無性格は天才の特質だともいうね。

みんなみんな昔ながらの彼であって、
その日その日の風の工合いで少しばかり色あいが変って見えるだけのことだ。

ロマネスク

嘘のない生活。その言葉からしてすでに嘘であった。

玩具

もはや私を警戒する必要はあるまい。
私は書きたくないのである。

私は誰にも知られずに狂い、やがて誰にも知られずに直っていた。

いまもなお私の耳朶をくすぐる祖母の子守歌。
「狐の嫁入り、婿さん居ない」その余の言葉はなくもがな。

陰火

どういう傑作でも、作家以上ではない。
作家を飛躍し超越した作品というものは、読者の眩惑である。

おれは君に知らせてやりたい。
どんな永遠のすがたでも、きっと卑俗で生野暮なものだということを。

いちばん恐ろしいのは孤独である。

みれんではない。解決のためだ。いやな言葉だけれど、あとしまつのためだ。

めくら草紙

なんにも書くな。なんにも読むな。なんにも思うな。ただ、生きて在れ!

この水や、君の器にしたがうだろう。

解説より

けれども、私は、信じて居る。
この短篇集、「晩年」は、年々歳々、いよいよ色濃く、きみの眼に、君の胸に滲透して行くにちがいないということを。
私はこの本一冊を創るためにのみ生まれた。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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→人間失格
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