「友だち幻想(菅野仁)」より名言をまとめていきます。
友だち幻想
はじめに
友だちの数は多いはずなのになぜか寂しい。このところ友だち付き合いに疲れている。
第1章
一人でも生きていける社会だからこそ「つながり」が難しい。
一人で生きていても昔のように困ることはありません。生き方としては、「誰とも付き合わず、一人で生きる」ことも選択可能なのです。
第2章
親しい関係であれば親しい関係だからこそ、この「他者」であるという認識は重要になってきます。
相手を他者として意識するところから、本当の関係や親しさというものは生まれるものなのです。
どんなに仲良くしていても、どんなに相手や周囲に配慮した言動を心がけていたとしても、何かしら誤解しあったり、うまくいかなくなることがあるのが他者との関係です。
第3章
親しいはずなのに、その場にいない友だちの悪口を言う。
このような振舞いは、この二人に新たな不安を引き起こしがちなのです。その不安というのは、今度はいつ自分が排除される側にまわるかわからないということです。
ある種のグループでは、いつも関係を密にしていないと、いつ排除されるかわからない不安がつきまといます。不安になるから、ますます固まって一緒にいる。
多くの情報や多様な社会的価値観の前で、お互い自分自身の思考、価値観を立てることはできず、不安が増大している。
同調圧力のような形でお互いに消耗しあうことが、なるべく無いような友だちの作り方が、そろそろ必要なのではないかと思います。
「気の合わない人と一緒にいる作法」ということを真剣に考えなけらばならない。
「子どもたちが誰でも友だちになれて、誰でも仲良くなれる」ということを前提としたクラス運営・学校経営は、やはり考え直したほうがいいのではないでしょうか。
「やりすごす」という発想が、非常に大事なことだと私は思っています。
「あまり濃密な関係を学校空間の中で求めすぎない」ということが、教師や大人の心得として、じつは大事なのではないかと思っています。
第4章
自由はルールがないところでは成立しません。
無意味に人を精神的、身体的にダメージを与えないようにするということは、自分の身を守る、自分自身が安心して生活できることに直結しているのです。
クラス全員が仲良くできる、全員が気の合う仲間どうしであるということは、現実的に不可能に近いことです。
人によってルールに対する感覚がかなり違うということを理解しておくこともとても大切です。
第5章
先生というのは基本的には生徒の記憶に残ることを求めすぎると、過剰な精神的関与や自分の信念の押し付けに走ってしまう恐れがある。
生徒たちに自分の熱い思いや教育方針を注入することよりも、自分の教室が一つの社会として最低限のルール性を保持できているようにすることです。
学校と言うのは、あえて単純化していえば個性的な子どもを育てる場ではありません。普通の社会人になるための基礎力を育てる場です。
本当に個性的な子どもというのは、本人は別に個性的にふるまおうと思っていません。
むしろ自分の個性をコンプレックスに思っていたりしがちな場合だってあるのです。
第6章
子どもが口で言っている表面的な言い方や勢いに惑わされず、自分の子がどの程度まで成熟してきているのだろうかということを見極めながら、子どもを支える力が親には求められるのです。
(学校では)教えないことは何かというと、「君にはこういう限界がある」ということです。
第7章
人との関係を作っていきたい、つながりたいという積極的な思いが一方であり、でもやっぱり傷つくのはいやだといった消極的な恐れ感情もある、それが人間です。
「自分というものをすべて受け入れてくれる友だち」というのは幻想なんだという、どこか醒めた意識は必要です。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。