「悲しみの上に人は輝く(青山俊董)」より名言をまとめていきます。
悲しみの上に、人は輝く
第1章
面白いですね、清水では駄目で、泥田がいいというのは。
泥の中にありながら泥に染まらず、あの清らかな花を咲かせるように、人々も世の中の泥に染まらず、美しく生きましょう。
煩悩のないところ、悩みや苦しみや迷いのないところには、悟りも喜びの世界もないということです。
生まれつきいただいてきた美しさとか、醜さというものは、自慢することでもなければ、また恥ずべきことでもありません。
30歳の人は30年の歳月の生き方の総決算の姿がいまの姿であり、70歳の人は70年の歳月をどう生きたかの総決算の姿が、いまこの私なのです。
「因」に何の「縁」を加えるかで「果」は変わる。
人生のよき師、よき友、よき教えという最高の媒染によって、苦悩という、泥という私の素材を、輝かしいものに変えてゆかねばならないと思ったことです。
過去を心のお荷物として背負い込まず、未来を抱き込まず、前後裁断して今日只今に立ち向かえ。
その今日只今が我が心にかなうことであろうとなかろうとにかかわらず、姿勢を正し、腰を入れて、前向きに取り組んでゆけと教えられます。
失敗が人間を駄目にするのではなく、失敗にこだわる心が人間を駄目にするのであり、失敗を踏み台として前向きに取り組むところにのみ、過去を生かし、未来を開く鍵もあるというものでしょう。
私たちの人生の処し方も、いついかなる状態の中に投げ出されても、そこを正念場とし、逃げず追わず、ぐずらず、腰を据えて取り組んでゆきたいものです。
部屋に一輪の花を飾ることを忘れない人になってくださいね。
何をもって「しあわせ」とするのでしょうか。人によって、みんな中身が違います。
第2章
本当に賢い人というのは、こういうおのれの愚かさを知り、おのれの欠点を素直に認めることができる人のことではないでしょうか。
光のとどかない深い海に住んでいる魚は、ものを見る目まで失ってしまう。
摘むことしか考えなかったら、出る場所を失ったエネルギーはますます曲折し、鬱積してゆきます。
憎しみや嫉妬のあるうちは、愛の日を取り戻すことができるのです。
そう「私が変われば世界が変わる」のです。
結果は問わない。そのことにどれだけの努力をはらったか、だけを問う。
とかく世間のものさしは結果を計る方に偏り、ものさしというのはそれしかないと思っている人が多いことは、残念でなりません。
負けることができるというのは、精神的に大人でなければできません。
人生に無駄な経験などというものはひとつもありません。転びを、失敗を、得難い経験として生かしてゆくことです。
心のこもらない多くのものより、わずかでも真心のこもっている方がはるかに素晴らしい。
第3章
どれだけ相手が悪いことをしていたとしても、それに対する叱りとか怒りのなかに私心がひそみこんでいる時は、煩悩になってしまうのです。
根底に私心があっての叱りは、相手の心に傷をつけこそすれ、素直に非をたださせる方向へは決して向かわない。
人を褒めるのはよいが、自分の自慢ばなしは耳障りなものです。
いただいた御恩は生涯忘れてはなりませんが、してさしあげたことはその場で忘れることです。
ひとたび口から出て人の耳に入ってしまった言葉は、ケシゴムで消すように消すことはできません。
真実は時を超えてつねに新しいもの。真実に、古い新しいはありません。
第4章
見る人が見れば、その人の顔や姿や立ち居振る舞いから、ひと目でそれまでのその人の生き方が見通せるというものでしょう。恐ろしいことであり、恥ずかしいことでもあります。
何故に、この体を大切にせねばならないのか。この体を、何に使おうとしているのか。大切なのはこの一点なのです。
生きているということは、常に死と背中合わせ、誰一人として一瞬後の命の保証はありません。
あとがきにかえて
うまくいかなかった時、人はとかく他に責任を転嫁します。彼が悪かった、彼女が悪かった。学校が社会が悪い。運が無かったと。
ただ、どんなに失敗の原因を他に転嫁してみても、問題は解決しません。
あなた方の家族を、職場を、そして人生を築いてゆく主人公は、他の誰でもないあなた方自身です。誰にも代わってはもらえないのですから。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。