最近の世の中は息苦しい。それは人々の善意と潔癖のためではないだろうか?
今回はこの件について考えていく。
善意と潔癖が世の中を息苦しくしている?
善意も潔癖も本来は好ましいものだ。それなのになぜ世の中が息苦しくなっているのだろうか?
最初にそれぞれ本来の意味を調べてみる。(goo辞書より)
善意:他人のためを思う親切心。好意的に相手の言動などをとらえること。
潔癖:不潔なものを極度に嫌う性質。不正なことを極度に嫌う性質。
他人のためを思うこと、不正を嫌うこと、意味的に考えれば世の中がよりよい方向に向かいそうな感じだ。しかし実際そうなっていない。なぜだろうか?
結論として考えているのは、あくまで自分にとって都合のよい解釈をしているためではないだろうか?
「善意をもっていれば、何らかの不正をした人を非難することが出来る。その権利がある」
本来の善意は守るものであり、攻撃のためには利用できない。しかしネットなどの影響も大きいが、「善意の第三者」が多数発生している。
ただ実質的には正論であることが多く、正しいとは思えないが、間違っていると指摘できないのが問題を難しくしている。
中国の書「菜根譚」にもこの弊害に関する言葉があるので、何点か紹介する。(現代語訳)
君子のあるべき姿だが、現代なら社会と言い換えてもいいだろう。
「汚い土には作物が育ち、澄みきった水には魚もすまない。汚いものもあえて受け入れる度量を持ってこそ君子と言える。独りよがりの潔癖は避けるべきだ」
「小さな過失はとがめない、隠しごとはあばかない、古傷は忘れてやる。他人に対してこの三つのことを心がければ、自分の人格を高めるばかりでなく、人の恨みを買うこともない」
「有害な人間を排除するにしても、逃げ道だけは残しておかなければならない。逃げ場まで奪ってしまうのは、ネズミの穴をふさいで退路を絶つようなものだ。それでは、大切なものまでかじりつくされてしまう」
誰にでも何らかの問題がある。人に知られたくない秘密を持っている人がほとんどだろう。それをたとえ善意であっても、暴くのは好ましくない。
もちろん殺人などの重大犯罪なら話は別だが、浮気などの問題なら関係者以外が非難するのはやりすぎのように感じる。
ヤフーなどの口コミを見ると、あまりに多くの人が善意(正義感?)によって誰かを非難している。それを肯定する人も大勢いる。
何でも許せとは思わないが、必要以上に非難が大きい社会はやっぱり息苦しい。
最後まで読んで頂きありがとうございました。