「荘子」の名言まとめました

「荘子(金谷治)」より名言をまとめていきます。
実際には長文のため管理人にて部分抜粋、難しい漢字も部分的にカナに変えています。

 

内篇

逍遥遊篇 第一

小知は大知に及ばず、小年は大年に及ばず。
なにを以て其の然るを知るや。

狭い知識では広大な知識は想像できず、短い寿命では長い寿命は想像できない。
どうしてそのことが分るだろうか。
スパンの長い遠大な計画は、多くの人には理解できない。
そのため人に理解される、スパンの短い短絡的な計画が実行される。

 

故に曰わく、至人に己れなく、神人は功なく、聖人に名なしと。

最高の人には私心がなく、神的な人には功績がなく、聖人には名誉がない。
世の中にとらわれない人は、何かを成し遂げても何も求めない。

 

今、子に五石の瓠あり、何ぞくりぬきて、大樽と為して江湖に浮かべずして、
其の瓠落として容るる所なきを憂うるや。
則ち夫子には猶お蓬の心あるかなと。

今あなたに五石も入る瓠があるのに、なぜくり抜いて船として川や湖に浮かべない。
そのように考えないで、なぜ瓠が入れ物として役に立たないのを憂いているのですか。
あなたは塞がった心を持っていますね。
人はどうしても欠点に目を向けてしまうが、視点を変えれば利点もある。
固定観念を無くせば、人でも物でも何かがあるはず。

 

 

斤斧にたちきられず、物も害する者なし。
用うべき所なくも、安ぞ困苦する所あらんやと。

役に立たない大木についての会話。
まさかりや斧で切られることもなく、誰にも害されることもない。
役に立たないからといって、何も悩むことはない。
木材として役に立たないからこそ、大きくなることが許されている。
その結果として憩いなど役に立っているとしたら、それは幸せな存在である。

 

斉物論篇 第二

已みなん、已みなん、旦暮に此れを得るは、其の由りて以て生ずる所か。
彼に非ざれば我れなく、我れに非ざれば取る所なし。
是れ亦た近し、而も其の為使する所を知らず。

くよくよするのは止めよう。
明け暮れに心の変化が起こるのは、もともと原因があって生み出されているのか。
相手が無ければ自分は無く、自分が無ければ心も現れない。
これこそが真実に近く、なぜそのような状況が起こるのかは分からない。
人にはいろいろな感情が生まれるが、同じ状況でも人によって様々な反応をする。
突き詰めると、感情の理由は分からないのかもしれない。
本文とは関係ないが、漢字の「已」(巳と己の中間)は初めて知りました。

 

其の非とする所を是として其の是とする所を非とせんと欲するは、
則ち明を以うるに若くなし。

相手の悪を善とし、相手の善を悪とした論争で勝とうとしたとする。
それでは真実を追求する立場には及びもつかない。
人それぞれに善悪があり、また価値観もあり、真実は一つでは無い。
それを成否または勝ち負けで考えるほど、愚かなことはない。
ただ中立的な許容は常に少数派のため、迫害を受けることが多いのは残念だ。

 

 

唯だ達者のみ通じて一たることを知り、是れが為めに用いずして諸れを庸に寓す。
已にして其の然るを知らず、これを道と謂う。

ただ道に達した者だけがみな一つであることをわきまえ、判断せず平常にまかせる。
そこに身をまかせるばかりで意識しない、それを道の境地という。
物事・損得・美醜など、人は常に判断・比較する。
しかし道を極めたものは、そういう視点でものを見ないことが書かれている。
固定観念や自分の視点で見ないからこそ、見えるものがあるかもしれない。

 

神明を労して一を為しながら、其の同じきを知らず、これを朝三と謂う。

あれこれ精神を疲れさせて同じことをくり返しながら、それが同じと知らないでいる。
これを朝三と呼ぶ。
この後に有名な「朝三暮四」が続きますが、ここでは省略しています。

 

故に、知は其の知らざる所に止まれば、至れり。

知識は分からない所で止まっているのが、最高の知識である。
意見が分かれると思うが、個人的には数学と国語で分けて考えればと捉えている。
数学的な問題を、知らないで止まっているのが正しいとは思わない。
しかし国語的な問題は正解が無いこともあるため、正解を求めないという考え方も出来る。

 

昔者、荘周、夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩みて志に適うか、周なることを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るか。周と胡蝶とは、則ち必ず分あらん。
此れをこれ物化と謂う。

有名な「胡蝶の夢」の一節です。
「荘周が蝶の夢を見ているのか、それとも蝶が荘周の夢を見ているのか」
細かい説明は省略します。

 

養生主篇 第三

庖丁刀を釈てて対えて曰わく、臣の好む所の者は道なり、技よりも進る。

庖丁は牛刀から手を話し答えた。
「私が求めているのは道であり、技以上のものです」
「庖丁解牛」として有名な箇所の一部分です。
細部だけを見ていたら、細部すらも上手くいかないという意味に捉えている。

 

沢雉は十歩に一啄し、百歩に一飲するも、樊中に畜わるるをもとめず。

野生の雉は十歩あゆんで僅かなエサを見つけ、百歩あゆんで僅かな水を飲む。
それでも籠の中で養われることは求めない。
人として安定を求めるのを否定はしない。
しかし心ふさがる日々が続くなら、何かが違うのかもしれない。

 

大宗師篇 第六

古えの真人は、生を説ぶことを知らず、死を悪むことを知らず。

昔の真人は、生を喜ぶことも知らないし、死を憎むことも知らなかった。
知らないというより、とらわれないし受け入れるという考え方。
多くの人は「生きている意味」とか「死ぬ前に」とかを考えすぎている。

 

至人の心を用うることは鏡の若し。
将らず迎えず、応じて蔵せず。故に能く物に勝えて傷わず。

最高の人の心は鏡のようなもの。
去るものは去らせ来るものは来させ、相手の応対を心に留めない。
そのため物事に対して自分を傷つけずにいられる。
多くの人が傷つくのは、相手の言葉や態度に過剰反応するから。
単純に反応さえしなければ、悩みのほとんどは解決する。
もちろん分かっていても出来ないから、悩みは深くなるのですが...

 

外篇

駢拇篇 第八

夫れ自ら見ずして彼れを見、自ら得ずして彼れを得る者は、
是れ人の得を得として、自ら其の得を得とせざる者なり。

自分の内を見ないで外を見、自分の内に満足しないで外に満足を求める。
これでは他人の満足を自分の満足とし、自分の満足を満足としない者である。

 

在宥篇 第十一

夫れ恬ならず愉ならざるは、徳に非ざるなり。
徳に非ずして長久なるべき者は、天下にこれなし。

安らかで楽しくないものは、本来のものではない。
本来のものではなくて長く維持できるものは、世界中に無し。

 

我れに当うも緡乎たり、我れに遠ざかるも昏乎たり。
人は其れことごとく死して、我れ独り存せんかと。

私を慕って来てもぼんやりと無心、私から去っていってもぼんやりと無心。
人々はみな死んでいくが、私一人は生きていくよ。
人にこだわらず、振り回されずに生きたいものです。

 

天地篇 第十二

吾れは知らざるに非ざるも、羞じて為さざるなりと。

私は知らない訳じゃない、恥ずかしいから使わないだけ。
子貢は便利な道具を教えたが、老人はあえて使っていないことを話している。
便利さや効率を追い求めると、それが全てになり大切なものを失うこともある。

 

而、身をすらこれ治むること能わず、而るを何ぞ天下を治むるに暇あらんや。

あなたは自分の身さえ治めれないのに、どうして天下を治める余裕があるだろうか。
子貢が自分は孔子の弟子と話した時、老人から言われたこと。

 

其の愚を知る者は大愚に非ざるなり。其の惑を知る者は大惑に非ざるなり。
大惑なる者は終身解らず、大愚なる者は終身、霊ならず。

自分の愚かを知る者は大愚ではなく、自分の惑いを知る者は大惑ではない。
大惑の者は死ぬまで悟ることはなく、大愚の者は死ぬまで知恵を持つことはない。
しかし自分を愚かと蔑んでしまうと、弊害も多いので注意が必要。

 

天運篇 第十四

西施心を病んで矉せるに、其の里の醜人、見てこれを美とし、帰りて亦た心を捧げて矉す。
其の里の富人はこれを見、堅く門を閉して出でず。
貧人はこれを見、妻子を挈えてこれを去りて走ぐ。
彼は矉を美とするを知るも、矉の美なる所以を知らず。

美人の西施が胸を病んで眉をしかめているのを見た村の醜女。
その姿が美しいとして、帰ると自分も同じように真似をする。
それがあまりに醜いので金持ちは門を閉じ、貧乏人は家族と共に逃げ出してしまう。
この醜女は美しいを知るも、美しい意味が理解できていなかった。
有名な西施の「顰みに倣う」の語源です。

 

秋水篇 第十七

吾れの天地の間に在るは、猶お小石小木の大山に在るがごときなり。
方に少を見るに存す、又たなにを以て自ら多とせん。

私が天地に存在するのは、小石や小木が大きな山にあるようなもの。
自分の小ささが目につくばかり、どうして得意になれるだろうか。

 

人の知る所を計るに、其の知らざる所に若かず。
其の生くるの時は、未だ生まれざるの時に若ず。

人の知識の範囲は、知らない世界の大きさに及ばない。
人が生きている時間は、これまでの悠久の長さに及ばない。
まったく知れば知るほど、知らないことが増えていく。

 

「井の中の蛙、大海を知らず」

有名な「井の中の蛙、大海を知らず」の語源。
全文を記載すると長くなるため、ここでは省略する。

 

荘子曰わく、往け。吾れ将に尾を塗中に曳かんとす。

荘子が楚王より招聘された時に返した言葉。
亀を例えに死して甲羅を利用されるのと、泥の中で尾を引きずって生きていること。
自分は後者を選ぶとし、使者を追い返している。
自由を失って贅沢するより、多少貧乏でも自由を選びたい。

 

至楽篇 第十八

人且に偃然として巨室に寝んとす。
而るに我れきょうきょう然として随いてこれを哭するは、自ら以て命に通ずると為す。
故に止めたるなりと。

人が天地の部屋で安らかに寝ようとしているのに、私が泣き叫ぶのは道理に通じない。
だから泣き叫ぶのを止めたんだ。
荘子の妻が亡くなったので恵子が訪ねると、荘子は瓶を叩きながら歌っていた。
不審に思い問い詰めた時、荘子が返した言葉になる。
流石に初めは悲しい思いをしたと話しているが、最終的な荘子の葬送になるのだろう。

 

達生篇 第十九

夫れ形を為むるを免れんと欲する者は、世を棄つるに如くは莫し。

あくせくすることを止めたいのなら、世を棄てるのが一番である。
不要な関係を止めていくと捉えている。

 

瓦を以て注する者は巧みに、鉤を以て注する者は憚れ、黄金を以て注する者は殙む。
其の巧は一なるも、而も矜む所あれば、則ち外を重んずるなり。
凡そ外に重き者は内に拙しと。

瓦を賭けて勝負をすると上手くいく。
しかし値打ちのある帯留めを賭けると恐れ、黄金を賭けるとでたらめになる。
要領は同じだが惜しむ心が出ると、外を重視することになる。
外を重視する者は、内が拙くなるものだ。

 

「木鶏」

有名な「木鶏」の語源。
全文を記載すると長くなるため、ここでは省略する。

 

適に始まりて、未だ嘗て適せずんばあらざる者は、適を忘るるの適なり。

快適な気持ちでいられるのは、快適を意識しない快適にいるからです。
本当に快適だったり楽しいことは、終わった後にそのことに気づく。

 

山木篇 第二十

荘周、怵然として曰わく、噫、物は固より相い累し、二類は相い召くなりと。

荘周はぞっとしながら思う。
ああ、物はすべて互いに害しあい、利と害は互いに呼び合うものだ。
荘周は大きな鳥を狙っているが、休んでいる蝉を蟷螂が、蟷螂を鳥が狙っている。
利を狙うと自分の害を見落とすことを恐れたためだが、結果として荘周にも害が及ぶ。

 

知北遊篇 第二十二

彼の至れるものは則ち論ぜず、論ずるものは則ち至らず。

あの至人は議論しない、議論する者は至人ではない。
誰もが議論を好むことを諌めている。

 

雑篇

庚桑楚篇 第二十三

故にこれを敬うも喜ばず、これを侮るも怒らざる者は、唯だ天和に同ずる者のみ然りと為す。

人から尊敬されても喜ばず、軽視されても怒らない。
ただ自然の調和と一致した者だけが出来ること。
いい意味での鈍感を身に着けたいものです。

 

徐無鬼篇 第二十四

夫子の死してより、吾れ以て質と為すなし。
吾れ与にこれを言うなしと。

恵子が死んでから、私の相手がつとまるものがいない。
もはや議論の妙技も言えなくなってしまった。
散々打ち負かした恵子だが、荘子にとって必要な相手だった。

 

則陽篇 第二十五

日々に多偽を出せば、士民安んぞ不偽を取らん。

日ごとに偽りがたくさんあると、士人も民衆も偽りの無いことをしなくなる。
政治が悪いから民衆が悪くなるのか、それとも民衆が悪いから政治も悪くなるのか?

 

外物篇 第二十六

荘子曰わく、無用を知りて、始めて与に用を言うべし。

役に立たない無用を知ってこそ、始めて有用を語ることが出来るのです。
恵子に現実離れで役に立たないと言われた時、荘子が返した言葉。
多くの人は失敗する方法、役に立たない方法を知る価値を知らない。

 

譲王篇 第二十八

唯だ天下を以て為すなき者のみ、以て天下を託すべきなり。

天下のために特別なことをしない者にのみ、天下を任せることが出来るのだ。
何かをすることも大切だが、そこに混乱が生まれやすいのも事実となる。

 

漁父篇 第三十一

今、これを身に脩めずして、これを人に求む、亦た外ならずやと。

今、我が身に道を修めもしないで、人にそれを求める。
なんと外にとらわれているだろうか。
「道」を他の言葉に置き換えることが出来るでしょう。

 

列御寇篇 第三十二

巧者は労して知者は憂うるも、無能者は求める所なく、食らいて遨遊す。
汎として不繋の舟の若く、虚にして遨遊する者なりと。

器用な者は体を疲れさせ、物知りは苦しむが、無能は何も求めずに気ままに遊んでいる。
ゆらゆらと波に浮かぶ舟のように、虚心で気ままに遊んでいく。
なまじ能力を示すと、器用貧乏になり使われるだけとなる。

 

荘子曰わく、道を知るは易く、言うはなきは難し。

真実の道を知ることは易しいが、それを言わないでいるのが難しい。

 

人に施して忘れざるは、天布に非ざるなり。

人に施して意識しているのは、無心な施しとは違っている。
まったくその通り。ただ利用するだけの人に対しては注意したい。

 

中徳なる者は自ら好しとするあり。
而して其の為さざる所の者を吡るなり。

心の中の徳とは自分を善しとする者であり、自分と同じでない人を非難する。
五つの悪い徳で最も悪い徳を「中徳」としている。
自分の中の善を「最悪」と捉えているのが面白い。

 

不平を以て平にすれば、其の平や不平なり。

公平で無い心で公平を行っても、それは真の公平では無い。
公平を訴える者は、自分に都合の良い公平を訴えるように感じている。

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 
 
 
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