「ぼくのメジャースプーン」の名言まとめました

「ぼくのメジャースプーン(辻村深月)」より名言をまとめていきます。

ぼくの通う小学校で陰惨な事件が発生した。
それによりクラスメイトのふみちゃんは、ショックのあまり心を閉ざしてしまう。
そんな時、自分には人にはない特別な能力があるのを知る。
犯人へのチャンスは一度きり。そして、ぼくの闘いが始まる。
現代の罪と罰を問いかける物語。

泣く理由

人間って、絶対に他人のために泣いたりできないんだって。
誰かが死んで、それで悲しくなって泣いてても、それは結局、その人がいなくなっちゃった自分のことがかわいそうで泣いてるんだって。
自分のためにしか、涙が出ないんだって、そう書いてあった。

ふみちゃんが人の自分勝手さを、知識として話した言葉になります。
これが正しいかは私には分からない。しかし、信じたくはないという気持ちはある。
ただ問題は、この言葉を理解してくれることはあっても、受け入れてもらえないこと。
例えば、お葬式の時に泣いている人に対して、これを言ったらどうなるでしょうか?
たとえ事実であっても、事実であるがゆえに人を怒らせる原因になる。

犯人の価値観

学校で教えるような「正義の」価値観の裏側に、それとは真逆な価値観が
存在していること、どちらが「正しい」なんてことがないことを、思い知らせたかった。
だけど、これは建前の、後づけだよね。申し訳ないけど、理由なんて本当にないんだ。

ぼくやふみちゃんが可愛がっているうさぎを殺した、犯人の言葉になります。
嫌悪感以外のなにものでもない。自分勝手な感覚の自分勝手な犯罪。
とても許せることではない。
ただ犯罪ではない同様の行いは、多くの人がしている事実も改めて考えたい。

娯楽の対象

既に起こった事件にしたり顔でコメントを差しはさみ、分析することは娯楽としての消費を助けることと同じなんだよ。

テレビのコメンテーターとして解説していた、秋山教授の言葉になります。
実社会でもよくある場面です。
本当に視聴者の興味としての娯楽を助けているだけで、被害者及びその関係者の気持ちなど、まったく考慮されていない。
もちろん情報の提供事態を、非難しているわけではない。
しかし被害者の実名や顔写真は何度も映し出すのに、犯人が未成年の場合、何も放送しないのは明らかにおかしい。
少なくとも被害者の写真は、本人及び関係者に考慮して映すべきではない。

協力者

犯人をどうするべきだ、「力」をどう使うべきだというのは、僕が決めることではない。
それを決めるのはあくまでもあなた自身です。
話し合い、アドバイスをすることはできます。僕の意見も言いましょう。
協力はします。けれど参加はしません。それでもいいですか?

秋山教授が能力の使い方を、ぼくに教えることに対して語った言葉になります。
強い立場の人や頭のいい人の言葉は、相手に大きな影響を与える。
簡単に言えば、相手の行動を決めることができる。
小学校4年生の子ども相手なら尚更です。
この考え方は教える立場の人が最低限、守らないといけないことでしょう。

力の有無

身近な誰かに対して自分がもう力を持たない存在として接することができるのは、幸せなことなんですよ。

長く能力を使うことのできた、秋山教授の言葉になります。
これはお金で考えると分かりやすいでしょう。
自分が大金持ちで、身近な友人が貧乏だったとする。
お金を渡すことは簡単です。しかし、それは正しいことでしょうか?
渡すと相手との対等関係がなくなる。
渡さなければ、相手はお金がないため希望することができない。
力はあるに越したことはないが、常に選択肢を迫られることになり、苦労の原因になる。
難しいところだ。

被害者への対応

彼女のことが好きなら、やらなければダメです。
事件の犯人や、その後騒いだ人たちが、彼女を消費したことが許せないなら、生きてそこにいる彼女を知っているあなたがそれをやらなくて、どうするんですか。

心を閉ざしたふみちゃんに、毎日学校帰りに会いに行っていたぼく。
ふみちゃんに変化が見られないことに意味を失いかけていた時、秋山教授が話した言葉になります。
私には被害者への対応や、心理学としての正式な知識はない。
しかし相手に負担をかけないで、常に気を使ってくれている人がいる状態は、正しいことだと考えている。
しかし本来は、全て相手目線でいる必要がある。
しかし場合により、「自分はこんなにもしているのに!」と自分目線になってしまう。
理解はできるが、残念とも感じる。

復讐の理由

市川雄太に対して、何かの罰を与えたいと考えるのはふみちゃんのためですか。
ふみちゃんの復讐のためですか。それとも、殺されたうさぎのためですか。

復讐を考えているぼくに対して秋山教授が言ったこと。
被害者のために怒りを感じることは間違いではない。
しかし加害者に復讐をするのは、違うように感じる。
加害者は罰を受けるべきです。しかしそれを行えるのは自分ではない。
また行った場合、「傲慢」といって間違いない。
実社会では、感情ほど行動には自由はない。

力の本質

(ぼく)「それでも、ぼくには力があって、何かができるんです。できるのに、それをしなかったら、絶対に後悔する」
(秋山)「そこにせっかく銃があるのに、撃たなければ勿体ないというわけですね。
普通の子どもであれば、憎い相手の家の窓ガラスに石でも投げ込んで終わるところが、あなたはそうではない」

相手に能力を使って復讐をしたいと考えるぼくに対して、秋山教授が語った言葉になります。
小学校4年生に対して、ずいぶん厳しい言い方ですが本質をついている。
力を持つことは、相手の力を封じるためという理屈は事実ですが、持っていると使いたくなるのもまた事実。
はじめは正しかったのに、力の魔力に負けて終わりを間違う場合は多い。
人間らしいが、残念でもある。

罰について

ひどいことをさせるのが、罰なんですよ。

復讐すると言いながら、相手のことも考えてしまうぼくに対して秋山教授が考えている罰についての考え方。
罪を犯した者が、「二度とこんなことはしたくない」と思わせるのが罰の理由となる。
人に善意がある。しかし多くは、自分を中心とした善意になる。
何が正しいのかは難しいが、人の善意を期待した罰というのは、何か違うように感じる。

犯罪者の本質

見当はずれです。彼がしたことの重さを理解することは、今のままでは絶対にありません。
自分を庇いながら、正当化しながら、本気でないふりを装いながら、一生そうやって逃げていく。
人間の本質は変わりません。

相変わらず犯罪者の善意に期待した復讐を考えているぼくに対して、秋山教授が語った言葉になります。
多くの人に犯罪者になる素養がある。
しかしほとんどの人は、実際に犯罪者になることはない。
そんな自分を知られないように覆い隠している。
しかし犯罪者は、そんな覆いを簡単に外してしまう人。
自分の利益のためだけに相手から大切なものを奪う人が本質的に考え方を改めることはない。
もちろん期待はしたいが、現実は残酷です。

自分のために

自分のために一生懸命になってくれる誰かがいること。
自分が誰かにとってのかけがえのない人間であることを思い出すことでしか、馬鹿にされて傷ついた心は修復されないと、僕の友だちが言っていました。
よく、頑張りましたね。

ふみちゃんを馬鹿にした同級生に対して怒ったぼくに、秋山教授が語った言葉になります。
自分が傷つくほどのことを受けた場合、同情めいたなぐさめや、みんなが怒っているのに合わせて怒る人は多数いる。
しかし個人として、本人として怒る人は少ない。
そういう人を一人でも持っていれば幸せなのかもしれない。

正しいこと

あなたは甘すぎて、僕は厳しすぎるんでしょう。そしてどちらも正しい結論ではない。

犯人に対する罰の重さに対して、秋山教授が語った言葉になります。
今日、多くの人がA案を支持しても、明日にはB案を多くの人が支持している場合がある。
しかし支持している人が多いからといって、正しいわけではない。
あくまで、支持が多いというだけです。それぞれの時代や立場によって、正しさは変わる。
自分の正しさは、相手の正しさと違うことを常に覚えておきたい。

感想

単巻の小説としてはかなりのボリュームでしたが、気づいたら読み終わっていた感じです。
辻村深月さんの作品は本作が初めてでしたが、早速他の話を読みたい気分です。
本題に戻りまして本作では、復讐とは何か、正しいこととは何かが多く語られている。
実際に復讐したいほどの怒りを感じることは多い。
しかし具体的な行動までは考えないため、本当の意味で私には何が正しいか分からない。
今回の主人公は小学校4年生と非常に幼い。
そのため犯人に対する復讐は、少し違和感を感じるのも事実。
そこは特殊な能力を持つフィクションのため、こだわらないこととする。
とにかに、幼い主人公が必死に考えて実行していくストーリーは引き込まれる。
間違いなくおすすめの作品です。

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ぼくのメジャースプーン

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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