「王とサーカス(米澤穂信)」の名言まとめました

「王とサーカス(米澤穂信)」より名言をまとめていきます。
新聞記者からフリーに転向した、大刀洗万智の物語。

王とサーカス

職場との相性

職場の雰囲気には、とうとう馴染むことができなかった。
同僚とはそれなりに協力し合えていたけれど、これという理由もなく上司とは上手く折り合えなかった。
わたしが自分で企画を立てて取材をしたいとい言うと、あまりいい顔はされなかった。
けれどそれを除けば、仕事は楽しく、学ぶことは多かった。

万智の会社員時代になります。
会社は合う人にはいい場所だが、そうでない人には非常に居心地が悪い。
明らかに合わない人以外に、普通にしている人も違和感を感じている人は多いはず。
もちろんその会社が合わなかっただけで、他なら合う場合もある。
しかし組織自体に馴染まない人もいる。
そういう人は独立するしかないのだが、独立してうまくいく人は少数ですから最初の一歩を踏み出すのは勇気がいる。

使える時間について

「何を考えたのですが」
「時間は有限だということについてです」

ここに至るまでの会話はありますが、ここでは省略しています。
人である以上、時間が有限だというのは当たり前。
そして重要なのは、「何かが出来る時間」のこと。
生きているだけで意味はありますが、年齢だけでなく動ける時間は限られている。
何か明確な準備をしているなら問題ない。
しかしやりたいことがあるなら、今すぐ動かないと手遅れになるのがほとんど。

見ているものと見えているもの

「それはそうだけど。子供が多いのね」
「子供と歩けば子供の街、坊主と歩けば坊主の街さ。どこでもそうじゃないのか」

見ているものと見えているものは、違うということですね。
例えば電車で会社に行く途中、すごい数の人を見ていますが記憶はしていない。
しかしその中に知っている人や、興味がある人が見えると記憶する。
人の曖昧さがよく分かる。

取材の基本とは

取材の基本は4W1Hにある。いつ、どこで、誰が、何を、どうやって。
「なぜ」は最初の段階では考えない。それは予断になる。

ここで取り上げたいのは「なぜ」を考えないこと。
例えばAさんが窃盗罪で捕まったとする。取材の基本としては、
(いつ)昨日の夜
(どこで)駅の近くのコンビニで
(誰が)Aさんが
(何を)おにぎりを
(どうやって)ポケットに入れた所を、店員に見つかり通報された
までしか確認してはいけない。
ここに「なぜ」を考えるとどうなるだろうか?
なぜAさんは窃盗を犯したのか?
なぜAさんはおにぎりなんて盗んだのか?
などになる。
一見問題がないように見えるが、それは目に見えない状況。
その憶測が自分の考えになり、客観的な状況ではなくなる。
その結果、自分が考えるイメージに合っている情報を信じてしまう。
私は記者ではありませんので、これが正しいかは分かりませんが、人の思考にとって「思い込み」ほど恐ろしいものはない。

国にはそれぞれの考えがある

「占い師?王様は占いを信じていたの?」
「当たり前だろ。占いは王さまこそ信じるに決まってる」

国によって考え方は様々である。もし日本でこんなことを言えば、大変な問題になる。
しかし国が変われば信じないほうがおかしいとなり、それは間違いではない。
現代人から見れば間違っていても、2000年前なら現代人の方が間違っていると言われることもあるだろう。
正しさがいかに曖昧であり、その時の都合によって変えられるかの典型である。

情報の価値

話を聞かせてもらうことでお金を払ったりはしないの。
でないと、お金目当てで話を大袈裟にする人がいるから。

真っ当な話である。しかし作中で万智も「場合による」と考えている。
これだけを聞けばいかにもその人が清廉な人に見える。
しかし実際は、嘘ではないにしても真実ではない。
言葉は簡単に人を騙すことが可能なツールと言えるだろう。

記事は誰のために書いているのか?

ふと気づく。
六年も記者をやっていたのに、どんな人がわたしの記事を読み、喜ぶのか、本当に深く考えたことはなかったのではないか。

記事では無いが、私も同じように感想を書いている。
「これを誰が読むのか?」と問われれば答えるこは出来ない。
考えて想定するのと実際は、おそらく異なる。
しかし、どのような人に向けてはイメージしなければいけない。
現時点において私は小説をストーリーより、人物に重きをおく傾向がある。
それぞれの人物が語ることに興味を惹かれるので、このようなものを書いている。
イメージと問われれば「私と同じような人」ですが、実際はどうですかね?

自分がすることの意味

知は尊く、それを広く知らせることにも気高さは宿る。
そう信じているからこそ、退職してからも記者として生きていこうと決めたのだ。
いまこの場にいるのはわたしなのだから、わたしがやらなくてはならない。

危険かもしれない相手と会いにいく時に、自分を励ましている言葉になります。
よく言われる、「ジャーナリスト魂」でしょうか?
これは基本的に賞賛されますが、わたしは嫌いです。
もちろん賞賛すべきこともありますが多くの場合、自分に都合よく利用しているイメージがあるからです。
またこのように言うと、「おまえに出来るのか!」と言われます。
もちろん出来ないですし、何よりしません。
「ペンは剣よりも強し」ということを信じていますので、ぜひその力は弱者を助けるものであることを願います。

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それぞれにとっての重要さ

「少なくとも、私にとっては重要ではない」
「世界に知らせることが重要ではないと言われるのですか」
「もちろんだ」

王族殺害の真相を知っているかもしれない人物と会っていた時の、会話の一部になります。
真相を世界に知らせることが重要と考える万智と、そう考えない相手がいる。
これをどのように考えればいいでしょうか?
答えは簡単です。
それぞれの立場に立って考えれば誰でも分かります。
記者の立場なら真相を知って、発表したいと考えるのは当たり前。
しかしそれは世界のためではなく自分のため、もしくは組織のためになります。
逆に相手の立場なら、自国の不祥事を世界に知らせたいと思うわけがない。
真実を知らせる行為が、いかに繊細なものかが分かります。

外国の記事を書くことの意味

では、お前が書く記事は日本語だ。お前の記事は日本で読まれる。
それが、この国となんの関係がある?

先程の続きであり、少しこの相手との会話が続きます。答えにくい問いですね。
記事を書いたとしても、ネパールのためになることはほとんどない。
なるのは自分の賃金と日本人の興味を引くだけのもの。
記事を読んで助けに行こうと考えるなら、それは勇敢でも誠実でもなく単なる無謀と言える。
もちろん記事自体がダメというわけではない。
このように難しい問題があることだけは、理解しておきたい。

真実の意味

真実ほど容易くねじ曲げられるものはない。あるいは、多面的なものはない。
私がお前に話し、お前が伝えたことは、そのまま日本人がネパールに抱く印象になる。

まさにその通り。情報を伝える者が、一番気をつけないといけないところだろう。
例えばもしこの相手が「王様を殺したのは側近のB氏である」と話し、記者がそれを書いた場合、当然読者は「B氏が殺した」と考える。
それが事実かどうかは、あまり関係が無い。
さらにその国では「側近が王様を殺すような怖い国」という印象を持つ。
一度ついた印象は、後に出てくる情報に疑問を持つ。
「印象を良くするために、違う情報を出して来たのでは?」と考えてしまう。
それほど真実は分からないものである。

信念を持つことへの疑問

確かに信念を持つ者は美しい。信じた道に殉じる者の生き方は凄みを帯びる。
だが泥棒には泥棒の信念が、詐欺師には詐欺師の信念がある。
信念を持つこととそれが正しいことの間には関係がない。

厳しい言葉が続きます。信念というのは聞こえがいい。しかし危険な言葉です。
ここに書いているように信念とはあくまで個人の考え方であり、それぞれにとっての正しいことに過ぎない。
そこに相手の都合というスペースはない。
そこから信念を持つ者には、「正しいことのためにはこの行為は許されるべき」という自分勝手な正義感が生まれる。
この考えが一番残酷なことを許容する。絶対に自分の正しさを人に押し付けてはいけない。

 

記事の娯楽性について

自分に降りかかることのない惨劇は、この上もなく刺激的な娯楽だ。
意表を衝くようなものであれば、なお申し分ない。
恐ろしい映像を見たり、記事を読んだりした者は言うだろう。
考えさせられた、と。そうゆう娯楽なのだ。
それがわかっていたのに、私は既に過ちを犯した。繰り返しはしない。

震災を多く経験にしている日本人にとって厳しい言葉です。
私にはこれについて語ることは出来ません。

写真の意味

写真は、第一報は、それ自体だけで解釈されてしまう。
いまわたしが戻って鎮圧の様子を撮れば、その写真はわたしの意思を離れて、残酷さを鑑賞するものに成り果てる。

映像と第一印象は非常に影響力を持つ。
特にその内容が、興味を引くものならなおさらです。
映像は正しさよりも、第一報は正確さよりも刺激性を求められる。
記者も仕事である以上、視聴率や販売数を気にしないといけないから当然と言える。
だからこそ最低限のモラルは守られる必要がある。

記者における原則とは

六年間の記者生活で、叩き込まれた原則がある。
「安全第一」、ほんの少しでも危険があるのなら、迷わず身を引くべし。

真実を写すために、より正確な記事を書くために危険なことにチャレンジするのが、正しいのか間違っているのか私には分からない。
危険の度合いにもよるし、重要度においても変わるから。
しかし危険はどうしても自分一人だけでは終わらない。
災害時の撮影のために、協力していた人にも被害が出ることがある。
「何もなかったからいいじゃないか」は、何もなかったから言える言葉だ。

報道における常識とは

「安全第一」が報道の原則なら、「悲劇は数字になる」は報道の常識だ。

先程の対となる言葉になります。
記者には「信念」とか「ジャーナリスト魂」とか、きれいな言葉はたくさんある。
しかし結局は「数字になる」から危険にもチャレンジするだけ。
「お金にならないことでも、同じことが出来ますか?」と問いかけたい。
もっともこんなことを聴けば、凄まじい反撃に遭うでしょう。

何かを話すこと

物言えば唇寒しと申します。
昔から、何か言うことは侮られ誹られ、誤解され曲解される元でした。

本当に話すことや書くことは、同意を得るのと同じぐらいの反感を生む。
しかもどちらの考えも間違っていないことが多い。
ただ問題なのは、その反感にも反感が生まれて際限がなくなること。
だからといって伝えることを止めた時点で、全てが悪い方向に向かうと考えている。
本当に伝えることは難しい。

ハゲワシと少女について

「ハゲワシと少女」は、ジャーナリズムに根本的な問いを突きつけた。
この世の悲惨を伝えられるということは、その場に立ち会っていたということだ。
なぜ助けなかったのだ。お前は何をしていたのだ。

「ハゲワシと少女」という名称は、戦争写真を基本的に見ない私でも聞いたことがあります。
今回これを書くに当たって、改めて確認した。確かに衝撃的な写真です。
助けずに写真を撮ったことは事実ですが、前後関係はこの写真からは判断でない。
本当に写真を見ただけでは、何も分からない。しかし想像することは出来る。
それが正しいかどうかは問題ではない。「どう感じた」が重要になる。
非難をすることは簡単です。
しかも相手には、「そうではない」ということを証明することができない状況であり、いくらでもみんなが興味を持つ想像を語ることができる。
賞賛するよりも非難する方がおもしろいため、今後も同じことが続くでしょう。

仕事の山

「大刀洗さん。どうやら、お仕事は山を越えたようですな」
「とんでもない。まだ何も越えていません」
「なに。山があることに気づけば、後はたいてい上手くいくものです」

長期の仕事や難しい作業に取り組んでいる時に、この感覚をよく味わいます。
最初の「スケジュールが立たない」や「方法が分からない」時は非常に苦しむ。
しかし実行可能なスケジュールができたり、分からなかった方法を理解できた時、作業はこれからで肉体的にはきついとしても、精神的に非常に安定する。
特に若いうちは、「忙しい」だけではあまり問題にはならない。

記者の分とは

真実に迫ることを至上の目的としつつ、しかし何が真実だったかを判断するのは記者の分を超える。
強いて言えば、それを決めるのは裁判所だ。

記者を含めたメディアは、正確な情報を伝えるのが仕事です。
そこに想像や人による判断、善悪を含めてはいけない。
しかし情報だけを伝えると非常に堅苦しいものになる。
受け取り側の興味を引くことも少ない。
そこに独自の判断を入れることにより、初めて興味を持たれる内容になる。
確かに独自の判断を書いている方が分かりやすい。
しかし人の考えを誘導している場合があることも、同時に考慮しなければいけない。

それぞれの誇りとは

軍人も密売人になれる。密売人も誇りを持てる。
誇り高い言葉を口にしながら、手はいくらでもそれを裏切れる。
ずっと手を汚してきた男が、譲れない一点では驚くほど清廉になる。
どれも当たり前のことじゃないのか。あんた、知らなかったのか。

現地の警察官が語った言葉になります。
そんなことは知っている。しかし信じたくない言葉でもあります。
犯罪者だからといって人間のクズとは限らない。
それぞれの考え方によって見方は変わる。
例えば金持ちからお金を奪い、貧しいものに分け与えたとする。
逆に貧しいものから高い税金を取ることで、国の発展のために役立てたとする。
どうでしょうか?
前者は善人と感じて、後者は悪い印象を持たないでしょうか?
法律的には前者が犯罪者で、後者が歴史的には評価される政治家です。
それぞれが誇りを持ち、それぞれが自分は正しいと感じている。
人の誇りとはその程度のものです。

かりそめの力

自信が付けば、それが外部から与えられたかりそめのものでも、肩で風を切りたくなる。
その気持はわかるから。
わたしだって初めて「報道」の腕章を腕に留めた時、自分が変わったような気がしたものだった。

記者の場合は腕章だが制服、スーツ、作業服など形を身にまとった時、独特の雰囲気が出てきます。
自分自身は昨日と何も変わっていなくても、変わったような気がします。
それはいいことだと考えている。怖いのは集団心理による行動だけ。

何かを書くこと

何を書くか決めることは、何を書かないのかを決めることでもある。

記者である以上、掲載できるエリアが決まっている。
そのエリア内で、どのような表現が可能かを考える必要がある。
多く書いた後に減らすのか、少ないところに追加していくのかは分からないが、慣れていないと難しい作業だろう。

記者の中立性とは

記者は中立であれと言われる。しかしそれは不可能だ。
自分は中立だと主張する時、記者は罠に落ちる。
記者に限らないが中立や平等、公平などは言葉では存在するが、実際はほとんど不可能なこと。

何もしないことは中立なのか?
お金持ちからより多くの税金を取るのは平等なのか?
同じ犯罪を行った場合、同じ判決が下ることが公平なのか?
平等と公平は同じことなのか?
など判断に悩むことは多い。
おそらく同じ人でも、立場によって意見を変えるだろう。
記者の中立は必要性だが、それが難しいことも理解したい。

自分はどうなのか?

どうぞ心なさい。尊さは脆く、地獄は近い。

大刀洗の行動に対して、八津田が批判している。
なぜこのように語るかはネタバレになりますので伏せておく。
人にはいくら言えても自分の立場になると途端に出来ないことがある。
仕事に例えると、ミスをした同僚がいたら「すぐ報告しなさい」と言える。
しかし自分が同じミスをした時、発言通りの行動がとれるだろうか?
知っていることと出来ることの間には深い溝がある。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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